「どうします。この場で始末しますか」
 捕らえた男の腕を背後に取りながら兵士が聞くと、月島はつい数日前まで彼の部下の一人であったはずの男に暗い眼差しを向けた。
 逃げた男が女の元に身を潜めている事は容易に突き止める事が出来た。街外れのあばら屋で昼間から酒を飲んでいた所に乗り込むと、女は兵士数人掛かりで組み敷かれる男を見て悲鳴を上げ、裸足のまま逃げ出してしまった。
 かつての上官である月島の厳しさを知る男は、もはやこのような状況になった以上、己の処遇については諦めているように見えた。固い地面に押さえ付けられた顔は泥に汚れており、伏せられた瞳からは徐々に生気が失われていく。月島は静かに口を開いた。
「まずはどこまで情報を流したのか確かめてからだ。女の後を追わせた者が戻り次第、一緒に連れて行く」
「はっ、承知いたしました」
「……鯉登少尉殿、どちらへ?」
 すると、それまで事の成り行きを冷めたように見ていた鯉登が踵を返した。月島が目ざとく気が付き声を掛けると、彼は外へと出ようとしていた足を止めて振り返る。
「用件は済んだのだろう、私がどこへ行こうと構わないではないか。……鶴見中尉殿とご一緒の任でないと、どうにも興が乗らん」
「そのような事を仰らず。部下に対する示しというものもありますので」
「であれば、そいつから話を聞き出した後には私が始末を付けてやろう」
 鯉登が指差して言うと、男の身体が怯えたように跳ねる。月島はやれやれと溜息を吐いた。まあ確かに、この後は戻って男を引き渡すだけなので問題は無いだろう。
「ところで、あの娘の元へ向かうのであればそういった指示は出ていなかったはずですが」
「今日は恋人として会いに行くのだッ。指示の有無は関係無い」
「……そうですか」
 ついに恋人などと言い出した鯉登に一瞬言葉を無くしながらも、月島は半ば諦めの境地で頷いた。
「あ。鯉登少尉殿」
 改めて出て行こうとするその背に月島が再び声を掛けると、鯉登はやや苛立ったように振り向いた。
「なんだ。何度もしつこい奴、……め……」
 軍靴の裏に、むにゅと嫌な感触がした。
 鯉登が一歩足を踏み出した家の外、そこにはいつからいたのか、舌を出した野犬が人懐こそうな目で彼らの様子を見ている。鯉登は、ハア……ハア……と息を荒くして恐る恐る自身の靴を地面から持ち上げた。
 そして、その下にあった予想通りの“正体”に、顔を青くして絶句する。
「…………!!」
 バッと勢いよく振り返り、声無き声で叫び助けを求める。だが月島は、彼を呼び止めるために差し伸べていた手をゆっくりと下ろして。
「お気を付けて」
 まるで自分は何も見なかったとでも言うように、今となっては手遅れ過ぎる言葉で彼を送り出した。


 + +


 往来を険しい表情で闊歩する鯉登の迫力に、すれ違う人々は思わず自然と距離を取る。そしてそんな周囲の行動は、今の彼にとってはまた違った意味で捉えられていた。
「(く……やはり、まだ“におって”いるのでは……)」
 何度も水で流した靴底。そのもの自体の形跡は落としきったものの、先程受けた衝撃からはまだ立ち直れずにいたのだ。
 胸の奥で燻る疑念が足取りを重くし、遂に鯉登は立ち止まった。
 もはやと直接会う事は諦めて一目姿を見るだけでもと思ってはいたのだが、これ以上はまず自身が耐えられそうにもない。軍からの支給品を勝手に処分する事は躊躇われるが、せめて兵営に戻るまでの道中なにか代わりの履物でも売っていないかと、辺りを見渡す。
「ひっ!」
 思わず息を飲んだのは、遠く、視界の先にの姿を見つけたからだ。元々彼女の勤め先へと向かっていたのだから当然といえば当然なのだが、今彼女に会うわけにはいかない鯉登は、咄嗟に建物の影に身を潜めた。
 は商売人らしき年配の女性と時折笑みなど見せながら話し込んでいる。鯉登は建物から僅かに身を乗り出して、そんな彼女に焦がれるような眼差しを送った。
「ほんのこてむぞらしか……」
 壁に指先でのの字を書きながらうっとり呟く鯉登の事を、すぐ傍で遊んでいた幼い子供達が呆けたように見上げる。
「ねえねえ何してるの?」
 その内の一人が声を掛けるも、鯉登は明らかに聞こえているはずでありながら目線すら合わせようとしない。だが子供達はそんな事はお構いなしに、まるで堰を切ったように「かくれんぼ?」「大人なのに」「変なまゆ毛」などと好き勝手に話し出す。
 腰よりも低い位置に小さな頭がわらわらと群がると、さすがに無視を続けられなくなった鯉登が鬱陶しそうに声を上げた。
「ええい!雛鳥じゃあるまいし、人の周りでそういっぺんに話すんじゃない!」
「おじさんも一緒に遊ぶ?」
「結構だ。そもそも私はおじさんではない。お前達もそうして遊ぶ暇があるのなら、家に帰って親の手伝いでもするんだな」
「親は……いない、かも」
 ここと、ここ、と。そう言って子ども達の何人かが指を差し合うと、鯉登は眉根を寄せた。
「おい」
 声を掛けられた子供らが振り返ると、鯉登が何やら拳を握って差し出していた。不思議そうに顔を見合わせた中で代表して前に出た男児が手のひらを出すと、鯉登は拳を開く。
 ちゃらと、小さな手の上に数枚の硬貨が落とされた。子供達は驚いた顔でそこを覗き込む。
「おこづかい?」
「いいや、取引だ。これ以上周りで騒がれてはやかましくてかなわん。分かったならそれを持って、飴なり何なりさっさと買いに行け」
「わあ〜よく分からないけどありがとう、おじさん!」
「だからおじさんではないというに!」
 嬉しそうにはしゃぎながら子供達がその場を離れていく。鯉登がその様子を見送りながら鼻からふんと短く息を吐くと、最後に駈け出そうとした子供が何か思い出したように足を止めて、彼の方へと振り向いた。
「ここ馬車がよく通るから気をつけてね」
「それはどういう意──」
 子供が指差した先を追って、自身の足元を見下ろした鯉登は再び絶句した。
 それは時間が経っていた為か、先程より“それらしい”感触が無く、今の今まで気が付かなかったのだ。じゃあねと走り去っていく子供の声すら鯉登にはもはや届いていない。
 一度ならず二度までも。それも立て続けに、だ。潔癖症というわけではなかったが、さすがに今日という日において巡り合わせの悪さを感じずにはいられなかった。
「オソマ踏んでしまったのか?」
「……さあ」
 そして極めつけは、このような姿を晒すまい思っていたの方から声を掛けられた事だった。すっかり意気消沈する鯉登は肩を落としたまま、どよんと暗い眼差しで彼女を一瞥した。
「どうかオイのこつは放っちょってたもんせ……」
 はややあって小首を傾げたかと思うと、鯉登の方へと歩み寄っていった。
「見せてみて」
「っ、駄目です!今の私に近付いてはさんまで汚れてしまう!」
「いいからいいから」
 の方からこれだけ前のめりに接触してくる事など鯉登の記憶には無かった。柔和な笑みを浮かべて手を差し伸べてくるに胸の高鳴りを感じると同時に、鯉登は内心激しく動揺もしていた。
「(なぜさんはこんなものを見たがる……!?)」
 に対し盲目的な眼差しを向けている鯉登にとって、むしろいつもより生き生きとしているようにさえ見える彼女とそれが、どうしても結びつかなかった。
 そうする内には鯉登のすぐ目の前までやってきていた。深く澄んだ色の瞳を真っ直ぐ向けられると、ついに観念した鯉登は、靴底を地面からゆっくりと離していく。
「──ああ、これならそんなに気にする程でも無、」
 言い掛けたがふと視線を上げると、そこでは鯉登が自身の顔を両手ですっかり覆ってしまっていた。彼はその状態のまま再び靴底を下ろし、彼女が呆気に取られたように見つめる中、力ない口調で続けた。
「こんな情けない姿をさんに見られてしまうなど……私は、もう終わりです……」
「そ、そこまで嫌だったのか。申し訳ない、悪い事をしてしまった」
「いえ……、元はといえば私の注意が足りていなかったのがいけない。そのような男には似合いの醜態です」
「大袈裟だな」
 落ち込む鯉登を励ますようにがその腕をポンポンと軽く叩くと、鯉登も顔から手を外してそちらへ視線をやった。
「気になるなら洗おうか。ちょうどそこに知人の店があるから、道具を借りられないか頼んでみるよ」
「!ですが、さんにそこまでご迷惑をお掛けするわけにはまいりません」
「これくらい迷惑のうちには入らないよ。……うん、確かに少しにおいはあるから気になるのかも」
「におっ……!?」
 鼻を動かしながらそう言ったは、固まった鯉登を招くように手を差し出した。
「おいで、これくらいならすぐ綺麗になるから」


 + +


 が“知人”と言ったのは、先程まで彼女が話していた年配の女性の事であった。
 女性が営む店の裏手、事情を話し借りた水桶と布を使って靴底を磨くの傍で、鯉登は木箱に腰掛けてその姿を見つめていた。
「一日に二回も。それは災難だったね」
「しかしさんに洗わせてしまうなど……」
 申し訳無さそうにする鯉登に、は無言で汚れた布を見せつける。「うっ」と言葉に詰まって怯んだ彼の、その分かりやすい反応に少し笑って、は口を開いた。
「私は何も嫌じゃないから。今回は任せて」
「……申し訳ない」
 再び手を動かし始めたをしばらく見てから、鯉登は静かに口を開いた。
「貴女は穏やかによく笑う女性(ひと)なのですね」
 その言葉には手を止め、顔を上げる。
 彼女を見つめる鯉登の眼差しは落ち着いていた。
「元よりそうであるという事は存じております。しかし、こうして直接お話しする時の貴女はどこか困惑したような表情が多かったもので、私がそうさせてるのではないかと……」
 月島からは色々と苦言を呈されてはいたが、実際は鯉登にとっても思うところはあったのだろう。ひょっとすると本日立て続けに起きた不慮の災難もあってか。珍しく自信なさげに己の真情を吐露する彼の、その意外な様子には少なからず驚く。
 そして、彼から指摘された態度の変化は、自身にとっても新たな“気付き”となっていた。
「子供達と話をしていただろう」
 再び動かし始めた手元に視線を落としてゆっくりと話し始めたに、鯉登は目を開いた。
「私は子供の頃から目が良くて、鼻も利くし、耳も遠くまでよく聞こえる。だから子供達とのやり取りも聞こえて……それで、困っているのかと思って声を掛けた」
「は……あれで、ですか?」
 鯉登自身はいまいちぴんときていないようだが、彼と子供達とのやり取りは、にとっては手を貸そうと思えるのに充分な光景だったのだ。
 鯉登には何度か助けられた事もあり、立場の違いはあれ本質的に悪い人間では無いと感じてもいる。
 靴の先にまだ新しい赤黒い小さな染みを見つけると、は彼には気が付かれぬよう少し力を入れてそこを押さえた。
「もしいつもの態度が気を悪くさせていたなら、それは私のせいだ。だから鯉登少尉は気にしないでほし、」
 頭上から影が落ち、は顔を上げた。
 そこに立っていた鯉登は腰を落として地面に片膝を突くと、彼に合わせて視線を動かすの顎に指先を添えて持ち上げた。


「──近い!?」
「ぬわっ!」
 そのまま自然な動作で唇を寄せてきた鯉登に驚いて、は咄嗟にその胸を押し返した。不意の事によろけた彼は、背後にどてんと尻もちをつく。
 この場合の正当性はの方にあるように思われたが、意外にも困惑したような表情を浮かべるのは鯉登の方であった。
さん?突然どうされたというのです」
「いや、だって」
 鯉登の反応から、は自分が何か早とちりをしたのではないかと思った。俯き、言いづらそうにしながら返す。
「ウチャロヌン、じゃなくて。あの、顔が近かったから……口付け、をされるのかと……」
「ええ、そのつもりでした」
 お嫌でしたか、と。さも当然のように応える鯉登にはますます混乱した。
「な、私が知らないだけでシサムの……いや、軍人とっては普通の事なのか?」
「……ほう。それはつまり、私以外の何者かがさんに狼藉を働いていると……」
「!いや、そうじゃないよ。例えだ」
 まるで特定の“誰か”を思い浮かべるかのように殺気立つ鯉登に対し、は言葉を付け足した。
 そして、そこで彼女はある事に気が付く。
「鯉登少尉、胸元に」
 が恐る恐る指差すと、鯉登も軽く目を開いて自身の胸元を見下ろした。
 まだ靴を洗っていた途中であったのだから、当然そうなるだろう──拭き布を持ったままの手で突き飛ばされた鯉登の胸元には、そこから移った汚れがべったりとついてしまっていたのだ。
「ごめんなさいすぐ拭、」
 バシーン!という力強い音がの言葉を遮った。
 改めて彼女が顔を上げると、汚れた胸元に片手を置いた鯉登が、自身の顎をやや上向き加減にしながら余裕めいた口調で言い放つ。
「フッ。なんのこれしき」
 先程までの嫌がりようとは別人のように、その姿は実に堂々としていた。どうしたものかと動きを止めるに対し、彼は瞳を細くする。
「思い返せばむしろ、今日の私は幸運でした。こうして改めて、貴女の心の美しさに触れる機会を得る事が出来たのですから」
 ともすると気障な印象を与えかねない台詞だが、見目形が整っている鯉登が口にすると様になっており、違和感無く聞こえた。だが──、
「今度さんが“ ク ソ ”を踏んだ時は、私がその靴を洗わせていただきましょう」
 ついにはっきりとそのものの名称を含んで力強く宣言するその間まで、そこに手を置きつづける必要はないのではないのかと。
 は、自分でさえ布越しであったのだという事実を指摘するかしまいか、きらきらと瞳を輝かせる鯉登を前に僅かに葛藤するのであった。