接客から戻ってきた同じ下働きの女性は、店先の方を振り返りながらに声を掛けた。
「言われた通り、は朝から裏方の仕事だったからもう上がったって伝えたら、あの軍人さん注文もしないで帰っちゃったわよ」
「そうか。ありがとう」
「でも勿体無いわねえ。あれだけ熱心なのに」
 羨ましそうにため息を吐く相手に対し曖昧な笑みで誤魔化すと、実際本日分の仕事を終えていたは改めて帰り支度を進めた。
 それは、今から数週間程前の話だ──。
「え?」
 街に出る前にいつも通り土方達の邸に寄って支度を終えたは、まるで世間話のように土方から告げられた話に目を丸くした。
「監視されていると考えてまず間違いない。どうやらあちら側には、完全にの正体が割れてしまっているようだな」
 あちら側、とはが店で働く時に決まって顔を出す鯉登、ひいては第七師団の事を指していた。土方はゆったりと椅子に腰掛けながら、を見上げて続ける。
「これだけの美しい花だ。我々がいくら用心しようと、余計な虫もつくだろう」
「そ、そんな話をしている場合では無いんじゃないか」
「なに、想定していたよりは早かったといった所か」
 戸惑うに対し、土方はあくまでも落ち着いた様子だった。
「手を出して来ないという事はあちらにも何か考えがあるのだろう。むしろ相手の懐に入る事で、この状況を利用する機がいずれ巡ってくるかもしれん」
 それから土方は一呼吸置くと、視線を外へと走らせて独り言のように呟いた。
「単純な斬り合いだけで済むのなら、話は早いのだがな」
 ──土方にはそう言われたものの、は客として訪れる鯉登への接し方に迷うようになっていた。下手を打つ位ならなるべく接触を控えるという結論に至ったのだが、雇われてる身としてはそれも限度がある。
「(せめて働き先を変える……というのも、あまり意味は無いか。それにこの店の皆は、私にも優しくしてくれるし……)」
 はそんな事をぼんやり考えつつ、店の裏口から外へと出た。

さん」
 すっと正面から影が落ちて。
 細い路地から表通りに出たの前に、立ち塞がるように姿を現したのは鯉登だった。あまりに突然の事で反応が遅れるに対して、彼は前傾姿勢で胸に手を当てながら、ホクホクと嬉しげな表情で続ける。
「お待ちしていました。今からお帰りですか?」
「あの、どうして……」
「ああ、店の者からは既に仕事は終えられたと聞いたのですが……。なんとなく、まださんが近くにおられるような気がしたものでして」
 の様子をそっ……といじらしく窺いつつ、褐色の肌を恥じらいに染めて告げる鯉登。
 彼の真意はどうであれ、諸々の事情が絡む今のにとって、それはどうしても悪い方向に深読みせざるを得ないものだった。


 + +


 鯉登の帰りを待つ月島は、建物の影に入り人々の往来を静かに眺めていた。そこに意気揚々とした靴音が近付いてくると、彼はハァと短い溜息を吐いてそちらに顔を向ける。
「どこに行かれてたんです──」
 その視線はまず鯉登の姿を確認した後、彼の背後に立つへと移された。月島は戸惑いの表情を浮かべる彼女と視線を交わすと、ほんの一瞬の間を置いて、にっこりと人当たりの良い笑みを浮かべた。
「どうもこんにちは」
「こ、こんにちは」
「鯉登少尉、こちらに少し」
「む、どうした月島軍曹」
 そのにこやかな表情を保ったま手招きする月島に、鯉登は小首を傾げて歩み寄った。
 おそらく自分は聞かない方が良いのではないかと、はこちらに背を向けて話し出した彼らの事を見ながらそんな気がしていたが、声を抑える月島に対して鯉登には一切そのような様子が無かった為どうしてもいくらかは耳に届いてくる。
「鶴見中尉殿はそのような事は仰っていなかったぞッ。一体どこに問題があるというのだ」
 相変わらず月島側の声は聞こえなかったが、鯉登の強い口振りからいって揉めているようだった。
 良ければこれから付き合ってくれないかと連れて来られた場所に、同じく見覚えのある軍服の男がいた時はさすがに警戒心を強めたが、どうもが思っていた話とは違うらしい。
 この間に立ち去るべきか、それとも──。
 身の置き場が無いまま思考を巡らすの隣に、鯉登がぷんすかと怒りながら戻って来た。
「ええい、まったく融通の利かん奴め。さん、このような頭の固い男は放っておいて我々だけで行きましょう」
「行くというのは?」
 は鯉登と、彼に指差されながら真顔で微動だにしない月島を見比べた。すると鯉登は今度、に親しげな笑みを向ける。
「以前、甘いものが好きだと仰ってたでしょう」

 鯉登に案内された店は、が想像していたよりずっと立派な場所だった。どうやら馴染みの客であるらしい鯉登と共に二階の座敷に通されると、は目の前に出された皿の上を興味深げに見る。
「これは?」
「みたらし団子です。甘じょっぱいタレが美味ですよ」
 どうぞ、と鯉登に手で促されたはしばし逡巡してから、団子の串を摘んでそれをぱくりと口にしてみた。
「!」
 がみるみる目を見開き輝かせていくと、鯉登も満足したように自分の団子に手を伸ばす。
「ここの甘味はどれも美味いですが、特にこのみたらしは一級品です。気に入ってもらえたなら良かった」
 既に二本目に手を出そうとしていたはそこでハッとした。食欲と好奇心に負け、つい何の躊躇いも無くここまで流されてきてしまったが、鯉登の目的がはっきりしないという状況に変わりは無い。
 の動きが止まった事に気が付くと、鯉登は不思議そうに眉を上げた。
「どうされましたか」
「鯉登、少尉は……どうして私に、こんなに良くして下さるんですか?」
 鯉登が大きく目を開くと、は自身の踏み込んだ発言をほんの少し後悔した。
 だが、で回りくどい事は得意では無かったのだ。こうして親切にされると当然親しさを感じてしまうし、そこに別の意図があるのであれば、多少の危険が伴う事だとしてもはっきりとさせておきたかった。
 重たげな沈黙の中、鯉登の表情が真剣なものへと変わる。彼はすっと短く息を吸ってから──。
「おいは、さんこっがすっじゃ」
「…………」
 には、全く、その意味が分からなかった。
 今のはおそらく鯉登のお国言葉というやつなのだろうが、強い覚悟を決めたかのような面持ちで告げて来た彼に、聞き返せる雰囲気は無い。
 の困惑による沈黙をどのように受け取ったのか、一転し、鯉登は何やら自信無さげに続ける。
「と……、突然このような事、やはりご迷惑でしたでしょうか」
 今度はなぜか言葉が元に戻っていた為、にも聞き取る事が出来た。だが彼の態度と状況の食い違いはむしろを更に混乱させた。は途中まで手を付けた皿の上の団子にちら……と目線をやると。
「迷惑……では無いですが、」
「本当ですか!!」
 すると鯉登はやや食い気味に、に向かってがたっと勢い良く身を乗り出して来た。彼はその勢いのままの両手を包む。
「なんと……このような事になるのであれば、もっと相応しい場所を用意したものを」
「っ……!」
 突然の事に動揺したが鯉登の手を振り解くと彼は驚いたように目を丸くした。その表情に多少の罪悪感を覚えながらも、は頭の中でなんとか今の状況を整理しようとしていた。
「(本当に刺青とは関係無い行動なのか?それとも私を惑わす為の演技?)」
 するとしばらくの事を見つめながら黙っていた鯉登が、「ああ」と何か合点がいったような呟きを漏らす。
「ひょっとして、さんの気掛かりはこちらの事でしょうか」
「え……」
 そう言って軍服の襟元に手を掛けた鯉登は、戸惑うの目の前で躊躇い無く順にボタンへと手を掛けていった。
 そこから──僅かにはだけた胸元から覗くのは、生気を失った人の肌だった。
 その上を、既に見慣れた刺青の曲線が走っている。
 は思わず言葉を失って鯉登の顔を見た。対する彼はやや恥じらう様子で、自身が纏うそれにすっと指先を滑らせる。
「鶴見少尉殿には“せん”が甘いと指摘されたもので、ご披露するにはお恥ずかしいですが……」
 それから鯉登は改めて顔を上げてを見つめると、にっこりと品のある笑みを見せた。
 ──その身に、土気色した死人の皮を纏ったまま。
「今は異なる陣営に身を置いているとはいえ、さんの立場は理解しています。我々は貴女の味方です。どうかご安心を」
 そう話す鯉登の言葉を聞いて、はそれまでの自身の行動を恥じた。
 何とか上手く立ち振る舞おうなどという考えは、自惚れだった。土方も彼らも既に互いの手の内などは承知の上、更に先の場所で争っているのだ。
「あッ……そ、そうでなければ監視の件ですか?勿論あれも仕事の内ですが、私は純粋にさんに会える事を待ち遠しく……」
 未だ緊張感を保つべき場面には変わりないのだろうが。全ては己の杞憂だったのだと、一気に脱力してしまったを前にあたふたと慌てる鯉登の言葉は、今の彼女には届いていなかった。


 + +


 鯉登の両拳がダンッと力強い音を立てて振り降ろされる。
「そんなはずは無い!さんは奴らに脅されているのでしょう!?」
「違う。私は自分の意志で皆に同行している」
「くッ、あの極悪人どもめ……!ここまで頑なに口を閉ざさせるなど、一体どんな卑劣な真似を」

「……どういう状況ですか、これは」
 部屋の入口に立って眉を顰める月島。彼は軍服の下の刺青人皮を露にしている鯉登と、先程とは違ってどうやらこれが素であるらしい態度で茶を啜るとを見ると、おおよそを理解して呆れた顔になる。それに目敏く反応したのは鯉登だった。
「なんだ、その物言いたげな顔は!言いたい事があるならばはっきりと言え」
「先程、慎重な行動を心掛けるよう申し上げたはずですよね」
「慎重も何も、互いの素性などとうに知れた事ではないか。今更そこを隠し合ってどれだけの意味がある」
「まあ……、もう話してしまったのでしょうし、良いですが」
 月島は諦めたように言って、今度はの事を見下ろした。その瞳は先程にこやかに挨拶を交わした時とは違う、冷静な中にも厳しさを感じさせる軍人のものだ。
「なかなかの度胸のようだな」
「私をここで殺すのか」
さん……!?」
 絶句する鯉登をよそに、月島とは互いの腹の内を探るようにしばし見つめ合っていた。
 すると、やがて月島の方がふっとおかしげに息を吐いてその口角を上げる。
「我々の事を人殺しだとでも?それを言うなら、そちらの方にこそ心当たりのある連中が多いと思うぞ」
「……」
「鯉登少尉が言ったように、そちらにある程度情報が渡っている事は理解している。ここで口封じをしたとして大して意味は無い。それに……」
 言葉を区切った月島をが改めて見上げると、彼は真っ直ぐ彼女を見つめながら続けた。
「先程のような物言いは不用意な事態を呼び込む事もある。今のような状況で、命を粗末にするような真似はしない方がいい」
 口調こそ相変わらず淡々としていたが、そこにはを気遣うような響きが含まれていた。思わず彼女が目を開くと、もう我慢ならないといったように鯉登が腰を上げた。
「失礼だぞ月島ァ!か弱い女性に対する物言いであればもう少し考えろ!」
「か弱い、ですか。……それより、呼び出しが掛かりました。行きますよ」
「な、に?それは鶴見中尉殿からか……?」
 途端勢いが削がれた鯉登は、月島との事を落ち着きなく見比べた。彼はやがてくっと下唇を噛むと、はだけていた服を整えつつ立ち上がる。
「私は女性の前でそのように胸元を露出するのもどうかと思いますが」
「ひ、卑猥な言い方をするなッ!下に“服”は着ていただろう!」
 そう言って鯉登は振り返ると、に対し名残り惜しげな視線を送る。
「中座してしまう形となり申し訳ありません。支払いは私がしますので、さんは好きにご注文されてゆっくりしていって下さい」
「!そんな、私は自分の分は自分で払う」
「いいえ、ここは私に。もしよろしければまたお付き合い下さい」
 それでも物言いたげなに対し鯉登は「では」と一礼をすると、月島と共に部屋を後にした。それから店の外に出てきても相変わらず上機嫌そうな鯉登を、月島は横目で見る。
「随分と打ち解けられたようで」
「そうだろう、そうだろう。最後さんの切なげな瞳には後ろ髪を引かれる思いだったが、互いに想い合っている事が確認出来ただけでも有意義な時間だった」
「……」
 月島は、フフ……とほくそ笑む鯉登の、その言葉の意味を少し考えてから。
「いや、流石にそれは勘違いではないですか」
「む、どこが勘違いだというのだ。さんは確かに迷惑では無いと仰ったのだぞ」
 僅かに会話を交わしただけではあるが、月島は例えばが鯉登の感情を利用するようなやり方を取る人物には感じられなかった。態度を見ても、鯉登に対し男女間で抱く好意があるようにも思えず、まして彼自身は思い込みの強いきらいがある。
 そして、おそらくそれは違うだろうと言い切れるに関する“或る話”を、月島は鶴見から聞いていた。
「いや、流石にそれは勘違いではないですか」
「二度も言うな!!」
 彼女は果たして、皿の上に残っていた団子を食べたのだろうか。
 月島は今出てきた店の方へと僅かに視線を送った。