同じ界隈の繁盛店と比べると特段賑わっているわけでもないが、むしろその落ち着いた雰囲気を好み足繁く通う常連の姿は絶えない、が今回働いている食事処はそういう店だった。
「さっきの兵士さん、何か忘れ物みたい」
 昼の一番忙しい時間帯が過ぎた頃。卓の上を片付けていた給仕の一人がそう呟くと、同じく年若い下働きの娘達数人が色めきだってそこに群がった。
「ああ、あのお客さん雰囲気は少し怖かったけど男前だったわよね」
「私知ってる。あの人まだ若いのに少尉なんだって。しかもいい所の息子さんらしくて」
「へえ、益々いいじゃない」
 つい先程までそこに腰掛けていた青年について、各々がうっとりと会話に花を咲かせる。
「それで何を忘れていったの?私届けてこようかな」
「待ってよ、それなら私だって!」
「まあまあそこは公平に決めましょう。ええとこれは写、真……」
 奥の調理場からがひょこっと姿を現したのはその時だった。
「何してるの?」
「!ちゃん。これは、その……たった今帰られたお客さんの忘れ物があってね」
「えっ大変じゃないか。それなら早く届けてあげないと」
「それはそうなんだけど」
 しかしの言葉に給仕達はお互い視線を泳がせながら、先程までの前向きさとは真逆の曖昧な態度で返す。するとその内一人が神妙な面持ちでに向かって手招きをした。
「ほら見て。これなんだけど……」
「あ、これ写真ってやつだろ?いいなぁ、私もいつか撮ってもらいたいな」
、私達が言ってるのはそこじゃないのよ。ねえ……気が付かない?」
 まるで何かに怯えるような深刻な表情で指摘され、はきょとんと目を瞬かせてから、改めてまじまじと写真を見た。
 すると白黒の枠の中──そこには軍服に身を包むどこか見覚えのある男と、明らかな“違和感”が写っていたのだ。


 + +


 建物の間にある細い路地を塞ぐ薄汚れた着物の男二人を前に、は一体どうしたものかと難しい表情で迷っていた。
「へっへっへ、お前出稼ぎに来ている女だな。乱暴な真似されたくなけりゃ大人しく出すもん出しな」
「けっけっけ、まあそれでも足りない分はその体で払ってもらうがなぁ」
「(ありがちすぎる……!)」
 は思わずごくりと喉を鳴らした。
 実はがこうした輩に絡まれるのは初めてではない。むしろ彼女にとってはよくある事で、切り抜ける術もいくつかは用意している。しかし懐に隠すマキリの柄を握りながら思い出す事は「あまり目立つ事はしないように」という周りからの忠告だ。
 は柄から手を離すと俯いて、それから再び顔を上げた。顎に片手を添え、貞淑な笑みを作る。
「ええと……、それではこちらの方に兵士さんが来たっていうのは」
「そんな事言ったか?知らねえなぁ、そんな野郎は」
「ああそうでしたか。それはどうも、失礼しました」
「あ?」
 一礼をして振り向き、すたすたとその場を離れようとする。その行動に男達は一瞬呆気に取られたものの、すぐに気を取り直して追い掛け彼女の肩を掴んだ。
「おい待て!ふざけてんのか!?」
「ええ?ふざけてなどおりませんけども……?」
「舐めた女だな……!おい、そっち押さえろ。やっぱり金取る前にひん剥くぞ」
「(うっ、誤魔化せると思ったのに)」
 もうやるしかないかとが覚悟を決めようとしたその時だった。男の一人がひっと小さく息を飲んで動きを止めた。異変に気が付きそちらに目を向けた男も、顔を青くする。
 固まった男の後頭部には、背後から冷たい銃口がゴリッ……と押し付けられていた。
「こんなくだらん事で弾を無駄にさせるな。目障りだ、消えろ」
 引き金に手を掛けた相手が淡々と言うと、男達は互いに目を合わせ、やがて悲鳴を上げながら我先にとその場を後にした。
 再び静まり返った路地で、はハッと我に返って背筋を伸ばす。
「あの、助けていただきありがとうございま」
「動くな」
 すると今度その銃口は迷いなくの方へと向けられた。今、と向かい合う相手。それは確かに彼女が探していた忘れ物の主であり──そして、鶴見の部下として第七師団に所属する鯉登少尉その人であった。
「言え。なぜ私の後を追っていた?」
 鯉登の冷ややかな眼差しが、の返答次第では躊躇いなく引き金を引くと、そう語っていた。
 しかし下手な誤魔化しは命取りになろうかという緊迫したこの状況で、は場違いとも言えるような人懐こく明るい笑顔をぱっと彼に向けた。
「忘れ物をされませんでしたか?」
「……は?」
 予想だにしないの反応に銃を構えたまま明らかな戸惑いをみせる鯉登に対し、は警戒心の欠片も無く距離を詰めていった。鯉登は慌てて上半身を反らす。
「お、おい!だから動くなと」
「これです。さっきお食事された時に、兵士さんの席に残されていたので」
「む……?」
 の言葉に一応の心当たりはあったのか、鯉登は僅かに銃口を下げ、身を屈めながら彼女の手元を一緒に覗き込んだ。すると彼はみるみる目を見開き、彼女の手にあったものを引ったくるようにして奪い取る。
「あ……ああーー!!これは鶴見中尉殿のお写真ではないかッ!貴様、どこでこれを!!」
「や、ですから先程兵士さんが忘れていったのでお届けに……」
 鯉登の勢いにたじろぐを他所に、もはや銃も懐にしまって両手でしっかりと写真を持ち凝視する彼は、何かに気が付き目を見開いた。
「……!糊付けが直されている……」
 写真には今より年若い頃の鶴見と、その隣にもう一人、同じ軍服の男が並んで写っていた。何の変哲も無いその写真に唯一おかしな所があるとすれば──その男の顔の部分に、丸く切り取った鯉登の顔写真がべったりと貼り付けられていた事である。
 鯉登が問うようにの方へとバッと視線を向けると、彼女は「ああ」と手を合わせた。
「端の方が剥がれかけていたので貼り直したんですが。ごめんなさい、出過ぎた真似でしたか?」
「い、いや。そういう訳では無いが」
 そう気まずそうに応える鯉登も、実は先程の食事中に何とか米粒で糊付けを直せないかと試みていた。しかし兵士達の前でならいざ知らず、何より鶴見本人にも控えるよう言われてる為、堂々と公の場で写真を修復するのは憚られる所があり半端なままになってしまっていたのだ。
 今更ながらこの写真を見たの反応が気になった鯉登はチラチラと窺うように彼女の方へと視線を向けた。それを受け、は目を細めて続ける。
「それ、面白い工作ですね」
「なっ……ば、馬鹿にしているんだろう!?」
「?いえ、私は写真を撮ってもらった事が無いので……感心しちゃいました。そうしたら写真の中でも色んな場所に行けるし、色んな人と思い出を作れるじゃないですか」
 微塵の悪意も無く言うに、鯉登は口をぱくぱくと開きながら言葉を失くした。そんな彼を前にし、反対には笑顔のままふっと冷静になる。
「(あ。もしかしてこれが“迂闊”という……)」
 としては銃口を向ける鯉登に対して何も誤魔化しをしたつもりは無く、ただ今回は忘れ物を届けに来ただけ、素直にそれだけの事であったのだ。元より彼らに対して必要以上の敵対心は無い。
 しかし、今回の件を話せば確実に説教などしてきそうな者が彼女の頭には数名程浮かんでいた。背筋をひんやりとさせつつ、ゆっくり後退る。
「それじゃあ、私はこれで」
「──鯉登」
 するとそれを引き止めるように凛々しい声がその場に響いた。が見上げると、背筋を真っ直ぐに伸ばした鯉登が写真を胸元にしまいつつ、真摯な眼差しを彼女に向けていた。
「私は帝国陸軍、第七師団所属の鯉登音之進と申します。階級は少尉です」
「は、はい」
「失礼ですが、お名前は?」
 先程までとは打って変わり友好的にきらきらと瞳を輝かせながら問われ、は一瞬言葉に詰まりながらも応えた。
「私は……アイヌ、です」
さん」
 の名前を鯉登は嬉しそうに繰り返す。それから彼は彼女に向かってすっと右手を差し出した。
「先程は失礼な態度を取ってしまい申し訳ありませんでした。こうしてわざわざ届けていただき、感謝します」
「いえいえ、こちらこそ」
 は咄嗟に曖昧な返事をしながら慌てて彼の手を取る。
「良かったらまたお食事にいらして下さいね」
「はい。是非」
「ええと」
 こちらをじい〜……と見つめる鯉登と、彼にしっかりと握られたまま離される気配の無い手を、は戸惑いながら見比べた。失礼にならない程度に力を入れてみるも、思った以上の握力でびくともしない。
 改めてが見上げると、鯉登は熱に浮かされたような表情で呟いた。


「よう見っど、ほんにやらしか……」
「……」
 鯉登は顔色を悪くしたに気が付きハッと我に返ると、慌てて手を離して後退った。
「違っ……!!今のはおかしな意味では無く!その、私は国が薩摩なものでしてッ!」
「あ、そういう事か……」
 取り敢えず何やら卑猥な言葉を投げ掛けられたわけではないらしいと知ったは安堵する。
「ではそろそろ失礼します。ごめんなさい、仕事を残してしまっているので」
「あ、ああ。こちらこそ……引き止めてしまってすみませんでした」
 そうして笑顔で手を振り去っていくの背を、鯉登はまるで乙女のように背後に淡い花を咲かせながら、切なげにきゅっと唇を結んで見送ったのだった。


 + +


「いや、そこでわざわざ名前を聞かなくても知っているじゃないですか」
 夕食前に腹を空かせた兵士達で賑わう詰所。そこで今日起きた出来事を得意げに話す鯉登に、月島は彼の向かいの席から冷静に指摘した。
「ふん、分かっていないな月島軍曹」
 鯉登は指先でトントンと机を叩く。
「それにしても普通は偽名など名乗る所を、さんは身元まで正直に明かしたんだ。やはり連中に脅されて無理に同行させられているに違いない」
「鯉登少尉の態度があまりにもだったのでついうっかりという所ではないですかね」
「どういう意味だ!」
 月島に強く言い返してから、鯉登は物憂げに溜息を吐いた。
「可哀想に……あのような細腕では、卑劣野蛮な凶悪犯共に囲まれて日々気の休まる暇も無いだろう」
「報告では、確かヒグマの一匹位なら仕留める事が出来る豪傑だと聞きましたが」
 月島は、鯉登とはまた違った意味の溜息を吐く。
「あれだけ“自分は容姿などには騙されない。だから任せろ”と言っていたじゃないですか」
「なっ、べ、別に騙されてなどいないだろう。お前はさんと直接対話していないから分からんのだ」
 そう言うと、鯉登は懐から例の写真を取り出した。彼は昼間にが糊付けし直した自身の顔部分をそっと大切そうに指先で撫でる。
「心の優しい清らかな女(ひと)だった……。さんであれば真に私の事を理解してくれる。これから先夫婦となってもきっと上手くやっていけるはずだ」
「待って下さい、夫婦?今夫婦って言いましたか?」
「喋り方も普段通りにしてくれて構わんのだが。……ふっ、それは気が早いか。そこはお互い徐々にで構わんだろう」
「いや、気が早いどころか」
 既にこちらの声が届いていない様子の鯉登に、月島はそれ以上の追求を諦めた。そもそも普段の鶴見に対する狂信ぶりから見るに、彼はこういう男なのだろう。
 それに現時点ではに関しては動向を観察せよという指令しか出ていないので特に問題も無い。“現時点”では──、だが。
「私情を絡めるのは程々にして下さいよ」
「分かっている。正式な交際を申し込むのは、まずさんを奴らの元から救い出してからだ」
「……本当に分かっておられるんでしょうね」
 力強く応えながらもどこか会話の噛み合っていない鯉登を、月島は遠い目で見つめていた。