薄暗い路地に入ると通りを歩く人の声が遠ざかる。
 キロランケの隣には尾形の見知らぬ男が立っていた。目鼻立ちからして日本人だろう。髭が伸びっぱなしになっているが、よく見るとその顔立ちはまだどこかあどけない。肌は焼け、体格は大柄なキロランケと並んでも遜色は無かった。
「北前船の船夫だ。仕事を終えて、これからまた西回りの航路で戻るらしい」
 キロランケの言葉を受け、尾形が視線でその意図を訊ねる。
 このような場所で男三人身を寄せていては不自然に思われるだろう。あまり時間は掛けられないとキロランケ自身も思ったのか、彼は男の紹介もそこそこに続けて本題を切り出した。
を、その船に乗せてもらうよう話をつけた」
「…………はっ」
 尾形は何がおかしいのか息を吐き笑うと、前髪を撫で付けながら改めてゆっくり顔を持ち上げた。
「本人には伝えてるのか?」
に話しても納得しないだろうな。だが、何とでもやりようはある、お前だってあいつが安全な場所にいた方が」
「駄目だ」
 尾形の低い声は、これ以上の議論いかんでは協力関係の決裂すらあると示唆するに十分な冷ややかさを孕んでいた。
 対するキロランケはぐっと何か堪えるような表情を浮かべたが──やがて細く長い息を吐いたかと思うと、諦めたように相好を崩して苦笑する。
「そう言うだろうと思ったよ。分かった、この話は無しにする」
 キロランケは男の肩を軽く叩くと、すまないなと二言三言ほど言葉を交わして送り出した。
「それだけの気持ちがあるなら少しはに優しくしてやったらどうだ。お前だって、このままだと脈は無いって事くらい分かってるだろ?」
 すると尾形は、遠ざかっていく男の背からキロランケの方へと視線を戻す。先程までとは違いすっかりいつも通りの雰囲気へと戻ったキロランケは、尾形に向かってパチンと片目を閉じてみせた。
「アシパと同じで、の事ならあいつが赤ん坊の頃から知ってるからな。どうだ、口説き方が分からないなら教えてやろうか」
「…………」
 おどけるキロランケを無言であしらったものの。
 尾形は彼の言葉に、何か少し考え込んでいるようだった。


 + +


「一円、いや、八十銭でいい!」
 白石は往来を行き交う人々の目線も気にせず、必死に声を張り上げる。その勢いに気圧されるの隣、アシパはいつもの事だとすっかり慣れたように腕組みしながら彼に冷ややかな眼差しを向けていた。
「どうして情報収集にそんな金がいるんだ」
「それは言えない。アシパちゃん達を危険に巻き込むわけには……」
「どうせ酒を飲みに行くか、遊郭に行く気だろう」
「そんな事するはずないさっ!俺を信じて!」
 遂には地面に両膝を付き、額まで擦り付けんばかりに懇願し始めた白石に、はたまらず口を開いた。
「アシパ。シライシも返すって言ってるんだし、ここは私が貸すよ。それでいいだろう」
「甘やかすとつけあがるぞ。そう言って今まで返ってきた試しがあるのか?」
 アシパの追求には言葉に詰まる。
 実際金は返ってきていたのだが──、それはが白石に金を貸しているという話を聞いた杉元が、彼に取り立てを行ってくれたからであった。
 そんな頼りになる杉元の姿は今ここにはない。話の端に彼を思わせる事でアシパにまた暗い顔をさせてしまうかもしれないと思うと、には一瞬の躊躇のようなものが生じた。
「いだだだだ!尾形ちゃん、手踏んでるって!」
「そんな所に這いつくばるな、邪魔だ」
 そこで聞こえてきた騒がしい声にアシパとが顔を向けると、いつの間にか尾形とキロランケが戻ってきていた。尾形はそのままの前へやって来る。
、こいつの事は気にするな」
 尾形はそう言って、まるで労るかのようにの肩に手を置く。
 どこか様子の違う尾形に面食らう。それを見たキロランケの眉が僅かに持ち上げられる。
 尾形は彼女の肩に手を置いたまま、白石の方を振り返る。彼から視線を向けられると、白石は未だ地面に這いつくばったままの状態でビクッと身体を揺らした。
「道の少し手前に遊郭の案内が出ていた。おそらく白石もそれを見たんだろう」
「ヒュッ」
 図星だと言わんばかりにか細い息を吐いた白石が、気まずそうに一同から顔を逸らす。キロランケは肩を竦めると、白石に近づいてその首根っこをぐっと掴んだ。
「よーし、それだけ体力が有り余ってるなら俺の荷運びの仕事を手伝ってくれ。金も稼げて一石二鳥だろう?」
「俺はそういう意味で発散したいわけじゃあ……っぐ、く、首、首が締まる……!」
「キロランケニパ、私も行く。シライシは目を離すと逃げ出してしまうかもしれないからな」
「ああ、尾形とは先に宿に向かっていてくれ。俺達も夜までには戻る」
 キロランケはそのまま白石をずるずると引き摺っていき、アシパも後に付いていった。
「どうしようもない奴だな」
 その場に二人だけで残されると、尾形はふぅと短い息を吐いての肩から手を降ろした。
「キロランケはああ言ってたけど、私達も行こうか?何か手伝える事があるかもしれないし」
「俺とは二人ではいたくないか?」
 尾形の言葉には目を開く。
 そんなつもりは無かったのだが、改まって聞かれるとなぜか即答する事が出来なかった。そうするうちに尾形が小さく笑って、彼女はようやく否定の言葉を口にする。
「そんな事は思ってないよ」
「気遣わなくていい。それが正常な反応だ」
 尾形は僅かに目を伏せて、静かに語り始めた。
「今までの言動から、警戒するなというのも無理がある。俺はどうも昔からその辺りが上手くない……」
 そう話す尾形からはある種のしおらしささえ感じられた。
 確かに尾形に対しては無意識にそのような態度を取ってしまっていたかもしれない。思い返すとこの旅で彼に助けられた場面は多くあるというのに、自分こそ恩知らずにも程があるのではないか。
 罪悪感の渦に飲み込まれるの様子を、尾形は上目遣いで覗き見る。そしてが視線を戻すと彼はまたさっと俯いた。
「私の態度が良くなかった。本当にそんなつもりは無かったんだが、嫌な気にさせてしまって申し訳ない」
 の謝罪をじっと黙って聞いてから。
 尾形は顔を上げて周囲を見渡すと、どこかおかしそうに息をこぼした。
「何にせよ、こんな所で話し込むような事ではなかったな」
「それは……、確かに。それじゃあ行こうか。キロランケから宿の場所は聞いてる?」
「いいや」
 それならと、が先導するように歩き出せば尾形も従った。彼は始めこその背後を歩いていたが、少し考えるようにすると、足をすっと出して隣に並ぶ。
 が顔を向けると、同じように彼女を見ていた尾形と目が合った。そのまま彼は視線を逸らす事なく切り出す。
「本当は戻ってきてないんじゃないか」
「え?」
「白石に貸した金だ。アシパに聞かれた時、咄嗟に答えられていなかっただろう」
 そんな所まで見られていたかと驚くに、尾形は続けた。
「もし何かの理由で気後れしてるなら、俺が──」
「お金は、前に杉元が仲立ちしてくれて全部返ってきてるよ」
 あらぬ誤解が生じた事ではそれを咄嗟に否定したが、尾形が言い掛けた話を最後まで聞かずに遮ってしまったと気付きはっとした。
 しかし、尾形の方から再び話し出すような気配は無く。むしろの言葉の先を待つようだったので、彼女は再び口を開く。
「さっきは私がアシパの前で杉元の名前を出すのに躊躇ってしまった。きっとあの子にはいらぬ気遣いだったと思うけど」
「いや……、そんな事は無い。気丈にしているようでまだ子供だ、あれだけ身近にいた人間がいなくなったとなれば堪えるだろう」
 杉元が死んでるわけないと力強く言い切ったその気持ちにも嘘はないだろうが。には、網走の一夜で怒涛のように起きた出来事の数々がアシパの美しい瞳の奥底にまだこびり付いているように思えた。
 そして彼女よりいくらか多くの別れを経験してきているばかりに、つい悲観的な想像をしてしまう自身の不安の影を払うように、は敢えて冗談めいた口調で話す。
「杉元も戻ってきてくれればいいのに。そしたら、私も何の心配も無く白石に金を貸せる」
 尾形の口元が一瞬ぴくっと反応し動く。
 しかし何か思い直すように形を変えて、彼はに合わせるようにニコと人当たりの良い笑みを作った。
「ああ、そうだな。俺も同じ気持ちだ……」
 直後。二人の間に流れる空気が止まった。
 尾形は笑みを崩さぬまま、戸惑った様子のと対峙する。そうして、動きを止めた二人の側を何人かが怪訝そうに過ぎていった後だった。尾形は顔に貼り付けていた表情を消すと、今度は小さく息を漏らして。
「本当に──、性格の悪ぃ女だな」
 先程とは違う、力の抜けた笑みをみせながらにそう告げた。
「この会話の流れで、そう分かりやすい態度で疑うか?俺にだって、杉元の身を案じるくらいの情はあるかもしれないだろう」
「い、今の言葉自体がどうという事ではなくて。何となく合流してから様子がおかしかったから」
「様子がおかしいときたか」
 としても直接それを指摘する事は憚られたのか、一度は尾形の言葉に対する違和感を飲み込んだ結果が先程の妙な沈黙だ。
 しかし気を悪くするかと思われた尾形は、の言葉に対しそれまでの振る舞いを崩して、却って楽しげに応じた。彼女にはその理由が分からず、更なる困惑を生じさせながら、宿までの道のりを辿る事となったのである。


 + +


 日暮れから夜にかけて、急激に気温が下がった。
 頭上からの青白い月明りを頼りに、港へと続く街外れの林道を進んでいたキロランケは、突然その場で足を止めた。
「どうしてお前が……」
 苦々しく呟いたキロランケの視線の先。僅かに開けたその場所で、朽ちて横たわる木の幹に腰を下ろしていたのは尾形だった。すると顔を上げた彼は、キロランケと対象的に落ち着き払った様子で声を掛ける。
「よぉ。案外遅かったな」
 立ち上がった尾形の言葉には応えず、キロランケは周囲に視線を走らせていた。
「あいつはどうした?」
 警戒心を強めるキロランケに対し、尾形は挑発とも取れるような態度で両手を広げてみせる。
「なんだよ、待ち合わせ相手が俺じゃ不満か?」
「答えろ」
 低い声で凄むキロランケに尾形は肩を竦めると、彼の足元に向かって小さな布袋を放った。それは地面に落ち、ジャリッと金属の擦れた音が鳴る。
 キロランケが再び視線を上げると、それまでのどこか戯けるような態度から一変し尾形は冷ややかな表情を彼に向けていた。
「口を塞ぐつもりなら、もう少し金を積んでおくべきだったな。まあ……、それでも俺から言わせるとなかなか義理堅い男だったとは思うが」
 汚れた布袋に入った金は、キロランケが先の船夫に渡していたものだった。
 尾形からはまだ熱を持った硝煙の匂いがする。
 待ち合わせていたはずの船夫が現れず、その事を知らせていなかったはずの尾形がいる。彼らの間に何が起きたか推測するには十分な状況が揃っていた。
「そっちこそ、それは生きてるんだろうな」
 尾形の言う“それ”とは──、キロランケの背でぐったりとしているであった。キロランケは肩越しに彼女の様子を窺ってから応える。
「少し眠らせているだけだ」
「まさか薬か?これでもこちらは丁重な扱いを心掛けてるんだ、知らぬ所で傷物にはしてくれるなよ」
 やれやれと呆れたように言いながら、尾形は背中から降ろした銃をゆっくりと銃を構えた。持ち上げられた銃口は、当然であるかのようにキロランケに向けられる。
「その背中の荷物はここで降ろしていけ。心配しなくても話ならうまく合わせておいてやる」
「本当にそれでいいのか?これから先の争奪戦はきっと今まで以上の殺し合いになるぞ。これまで無事だったのも、それこそ奇跡みたいな話で──」
「奇跡?」
 尾形はやや虚を突かれたような口調で繰り返すと。
「違うな。そいつは、俺が殺さなかったから今生きているというだけだ」
 否定や威圧の為でも無い。ただ単純に、自身にとっての事実を淡々と。
 キロランケは──自分とは全く違う生き物と対峙するような感覚を覚えて──思わず気圧されてしまう。それは、交渉の決裂を意味していた。



「起きたか」
 心地よい揺れの中、はゆっくりと瞼を開いた。
 宿の外で皆と食事をとった後、どうやらすっかり眠ってしまったらしい。まだ目覚めきっていない頭をもぞもぞと動かすと、自分が今誰かに背負われている事に気がついた。
「どうして……」
「店でそのまま眠ってしまったのを覚えていないのか。宿まで引き摺られないだけ良いと思うんだな」
 を背負って歩くのは尾形だった。
 彼から呆れたように言われてが思い返すと、すっかり意識を手放す寸前の自身を誰かが抱えてくれたような記憶があった。力強く優しい腕。あれは確か──。
「白石には金を貸してやれ」
 すると、尾形がまた昼間の件に話題を引き戻した。
「よくよく考えたら、女抱きたさで道中コソ泥でもされる方が面倒だ。そんなくだらない事で足止めされてはかなわんからな」
 は白石の名誉の為に否定してやりたかったが、それ以上に尾形が話した仮説の方がしっくりきてしまった為それは叶わなかった。
 それだけでは無い。
 目を覚ました自分は今すぐ尾形の背から降りなければと、はそう思っていた。しかし寝起きの気怠さとも異なる重たげな感覚が、彼女の身体と思考に伸し掛かっていたのだ。
 脳裏には先程の食事風景が断片的に浮かんでは消えてが繰り返され、今現在自身が置かれている状況がどんどん希薄になっていく。
「金の回収だがそれも……」
 尾形が何かに気が付いたように自身の肩越しに視線を向けると、ぼんやりと虚ろな瞳のがいた。
 しかし彼は力が抜けて重心の位置が変わったを難無く背負い直すと、また前を向き、仕切り直したかのように続ける。
「それも、俺が代わればいいだろう。役割なんてものは大抵の場合替えが利く。そいつでなくてはならないという思い込みは、単なる驕りだ」
 が、肯定か否定かも分からぬ「う……」という呻き声を漏らす。
 尾形にとってはそのどちらでも構わなかったのだろう。林道から街へと戻る道程は周囲を木々に囲まれて、他の生き物の気配など感じられなかった。しかし彼は暗く続く道の先を見据え、何者かに語り掛けるように口を開く。
「お前らも、今更墓を掘り起こされたくは無いだろうに」
 にはもう、尾形が語る言葉が今なのか過去なのか、それとも既に夢の中の事なのかも分からなくなっていた。
 ただ先程確かにあった仲間達との食事風景、最後に誰かが自分を抱えてくれたはずであるその記憶の中、尾形の姿はどこにも見つける事が出来なかった。