まず後ろ手の感触を確かめるように軽く身動ぎした白石は、顔色を僅かにピクリと変えてそれまでと違う反応をみせた。
「おっ……、と?ほぉ〜なるほどね……こういうやつか」
「どうだ。こいつは結構難しいだろ」
 キロランケが煙管を燻らせながら得意げに笑う。と言うのも、白石の両手首は今、彼がきつく結んだ縄で固定されていたのだ。
 今晩樺太アイヌの小さな集落に泊めてもらう事となった一行の話題は、白石の脱獄話へと及んでいた。その流れで彼に縄抜けの披露を提案したのはキロランケだ。
 はじめにアシパ、次にが結んだ縄を容易く抜けた白石は、ここに来て初めてその表情に難色を浮かべていた。ちなみに残る尾形はというと、白石を囲む輪には加わらず、少し引いた位置から彼らの様子を見ている。
「キロランケニパの縄には随分と手こずるんだな」
「私とアシパの時はすぐだったのにね」
 これはひょっとするかもしれないと、アシパとは期待した眼差しを向ける。すると白石はくっと苦しげに眉根を寄せた。
「あーーこれは駄目かもッ!あーーあ、あ、あ……」
 そうして──、散々騒ぎ立てた白石の手からはらりと縄が落ちると、彼を囲んでいた面々の表情は途端波が引くようにすっと白けたものへと変わった。
 白石は舌を出して、自身の頭をコツンと叩く。
「なーんちゃって、これくらいなら簡単に抜けられちゃうんだよん!ねえねえびっくりした?もしかして抜けられないと思った?」
「腹立つなこいつ……」
 キロランケが呆れたように言う。は振り向き、相変わらず無関心そうな尾形に声を掛けた。
「尾形は?」
「やらん」
 予想通りあっさり参加を拒否した尾形の返答を聞き、白石は勝ち誇るようにニイと口角を上げた。
「相手が悪かったな。こういうのは、縛られる時からある程度仕掛けとくもんなんだよ」
「その仕掛けは、私やにも出来るのか」
「ああ、確かにアシパちゃんやちゃんは覚えててもいいかもな。他にも簡単な鍵の開け方とか、狭い隙間を抜ける方法とか色々あるぜ」
 白石の話しぶりに興味を持ったは、僅かに身を乗り出した。
「狭い隙間はどうやったら抜けられる?」
「それはまず頭が通るかどうか。ちゃん関節は外せるよね?」
 当然のように言われたが返答に迷っていると、何かに気が付いたアシパが彼女を指差しながら指摘した。
「頭が通ってもトカプは?」
「トカプ?」
 白石が問い返すと、キロランケが笑って自身の胸元に両手で弧を描きながら補足した。
「トカプは乳だな、乳」
「へ、チチって……お、おっぱいの事?」
「ちなみに尻はオソロだ。確かにだと頭が通ってもそのあたりが引っ掛かるかもな」
 キロランケが白石に対して具体的に言及した事で、は彼をジトリと睨んだ。
「キロランケ……」
「ん?でかいのはいい事だぞ。しかし俺としてはそこばっかじゃなく、全体的にもっと肉付きがよくなってもいいと思うんだがなぁ」
 キロランケにとって赤子の頃から見てきたは、もはや身内に感覚なのだろう。全く悪気なくじろじろと身体を見てくる彼に、は言い返す気力も無くなっていた。
 背後から、尾形の小馬鹿にするような笑いが小さく聞こえた。


 + +


「ああ……、その女ならさっき見かけたな」
 尾形が声を掛けた男は、思い出したようにそう頷いた。乾いた寒空の下、店の汚れた外壁に寄りかかり、男は尾形に対して値踏みするような視線を向けながら続ける。
「知り合いか?それとも、何か訳ありなら手を貸してやってもいいぜ」
「どちらの方に向かった」
 男の裏を含んだ言葉を無視して尾形が聞くと、男はつまらなそうに舌打ちをして道の奥を指差した。
 尾形がそちらに歩き出そうとしたところで、男がまるで腹いせのように吐き捨てる。
「性格のキツそうな女だったな。氷みたいな目付きで人の事を見やがって、気に食わねえ」
 すると尾形はピクッと足を止めて、男の顔を見た。どうせそのまま通り過ぎていくかと踏んでいた男にとって、その反応は意外だったのだろう。今更ながら彼が銃を持っている事に気が付き怯みながらも、虚勢を張って「何だ」と言い返す。
「いや、なに……。なかなか見る目のある事を言うと思っただけだ」
 男は薄く笑う尾形に対して得体の知れない気配を感じ取ると、それ以上は何も言ってくる事は無かった。
 その後──、尾形は男から聞いた道をしばらく一人で歩いていた。
 移動中、物資補給の為に立ち寄った小さな村だ。人探しをするのもそう困難ではないかと思われたが、らしき人物の姿はなかなか見つけられなかった。
 尾形は軽く溜息を吐いて、その場で足を止める。
「(余計な手間を……)」
 ひょっとしたら男に適当な話をされたという事も考えられる。一度先程の場所まで戻ろうかなどと思案しながら、尾形は辺りを見渡した。
 それは景色に溶け込んでいて、ともすると気が付かないような違和感だった。尾形は訝しげに眉を顰めて少し遠くに見えるそれに近づいて行く。
「──ふざけてるのか?」
「!」
 声を掛けると同時、短い柵の隙間から出ていた“下半身”がぎくと揺れた。
 おそらく柵自体は、以前あったものが取り壊されて、一部だけ残された残骸といったところだろう。そこに引っ掛かっていたのは、尾形が探していたに間違いなかった。
 確かめるように前方へと回った彼から冷ややかな眼差しで見下されると、は逃げるように地面を向いて、「違う」だの「昨日」だのと、今にも消え入りそうな声を出した。
 の言葉の意味がすぐには思い当たらなかった尾形は、頭上に疑問符を浮かべた。しかし、昨晩彼らが話していた白石の脱走話に狭い隙間を抜けるといった事があったと思い出すと、合点がいったように声を出す。
「ああ、あれか……」
 にとって、昨晩の事は当然記憶に新しかった。
 そんな中、何か情報でもあればと一人歩いてきた人気の少ないこの場所でまさに手頃な“狭い隙間”を見つけてしまった。当然迷う余地など無いと思われたが、今こうして尾形に無言で見下されていると、彼女は自身がどうかしていたと後悔せざるを得なかった。
 そして、こうしている間にもずっと腕に力は入れているものの、やはり身体は前にも後ろにも動く事は無かった。
「(私の力だけだと、ずっとこのままかもしれない)」
 恥ずかしいなどと言っている場合ではない。は覚悟を決めると、おそるおそる顔を上げていった。
「あの……おが、」
 言い掛けては固まった。
 それは、いつの間にかしゃがみ込んでいた尾形の顔が、まるで待ち構えていたかのようにすぐ目の前にあったからだ。続く言葉に窮するに、尾形は愉しげに声を掛ける。
「どうした。何か頼み事があるなら、きいてやらんでもないぞ」
「……助けてほしい」
 観念したの言葉を聞いて、尾形はその瞳を薄くした。
 両膝に手を置いて立ち上がると、改めての状態を確認するように僅かに距離を取って眺める。まるで初めからそうあったかのような見事なはまり具合は、単純な押し引きだけでの解決は難しそうにみえた。
「大体、目算で分かるだろう」
「頭が通るかどうかって言ってたから試してみたくて……、今後どこかで役に立つかもと」
 の話を聞きながら、尾形は後側に回る。そうして身動きが取れないからは様子が窺えなくなると、ふむ、と息を吐いて。
「乳は通ってケツで引っ掛かったのは、肉の硬さの問題か?」
「硬さは、っ……!」
 反射的に言い返そうとしただが、途中でぐっと堪えるように言葉を飲んだ。
 小馬鹿にするような笑いをこぼしていた昨夜の事を思うと、尾形は敢えてこの話題を振っている事も考えられる。はやや間を取る事で、自身の心を落ち着かせた。
「……引っ掛かっているのは腰だから、関係無い」
「ふぅん……」
 尾形の方はそんなを、背後から面白がるような薄い笑みを浮かべて見ていた。すると彼はおもむろにの腰付近に手を置く。
「男と女の作りの違いで、勝手も違うと。ためになったみたいで良かったじゃないか」
 は思わず身体を強張らせると、焦って顔だけ背後に向けた。
「な、なんで触るんだ」
「逆に聞くが、触らずにどうやれと?」
「それは」
 からは柵が邪魔になって尾形の表情はよく見えないが、彼の言う事はもっともに聞こえた。自分が過剰反応してしまったようで恥ずかしくなり、誤魔化すように再び前を向く。
「まあ、実際抜け出すだけならそう難しい話ではないだろう」
「え……、本当に?」
「お前は腰が引っ掛かってると言ったが、厳密には違う。着込んでいる分かさ張っているだけだ」
 はそれはそうだろうといった風に、やや拍子抜けした雰囲気を出す。
 すると尾形はの腰に置いていた手を離し、今度は着物の布地をぐっと掴んで引き上げた。地面に向かって垂れていた前身頃が捲れ上がるような感覚に、は思わず背筋を反らせる。
「かさ張っている分を“減らして”やればいい。幸い布地まで挟まっているわけでは無さそうだしな」
「減らす、って、あ……ちょっと待って!」
 尾形の言葉の意味を理解したは、当然のように慌てだす。
「なんだ。ずっとこのままでいるくらいなら、俺にケツだけ晒して助かった方がいいだろ」
「どちらも嫌なんだが……」
 が難色を示すと、尾形は着物から手を離して彼女の顔が見える位置まで戻ってきた。彼はやれやれと面倒くさそうに腕を組む。
「注文が多いな。選べる立場か?」
「でも、他にも方法はあるだろう。おそらくこの柵はもう使われていないし、板を一枚くらい外してもらえば私も抜けられると思う」
「まあ、普通に考えたらその方法になるだろうな」
 がえっと声を出すと尾形はその場に再びしゃがみ込んで、彼女と視線を合わせた。
 そこで彼がフッと笑った瞬間──、も全てを悟る。
「真に受けて、ケツを出す方を選んだらどうしようかと思っていたところだ」
 目の前にいるこの小憎たらしい男を困らせられるなら、それくらい思い切ってやればよかったと。は少し後悔していた。


 + +


 長く同じ体勢でいたのだから無理もないが、は柵から抜け出してからもしばらく自身の腹のあたりを気にするように擦っていた。尾形は結局は全て地面にばらにした板を足で避けると、彼女を横目で見ながら声を掛けた。
「他に何も用がないなら行くぞ」
「……?行くって……」
「ここはよそ者への警戒心も強いようだし、買い出しはお前に代わってもらった方が話が早い」
 の見た目は特に和人の少ない土地では馴染み易く、そこに暮らす人々にも受け入れられる事が多かったからだ。
 しかし、自身の出自が未だ定かでないにとっては複雑な気持ちの方が強い。はつい先程も彼女の生まれを推測しながら馴れ馴れしく声を掛けてきた男に対し、戸惑いと反発心から冷ややかな態度を取ってしまっていた事を思い出す。
 店に戻る道を辿りながらが自身の目尻を指で押し上げると、尾形は怪訝そうに尋ねた。
「なんだ、それは」
「愛想良くした方がいいだろう。私は目つきが悪いみたいだから、気を付けようと思って」
「……そうか?」
 そう応じた尾形が立ち止まったので、も併せて足を止めた。そして今日だけでもう何度目になるか、尾形はの顔を凝視すると、皮肉げに瞳を薄くした。
「心配せずとも、こうして見るとちょっと寒気がするくらいの美人だ。俺は好きな顔だぜ」
「寒気……、それじゃあやっぱり愛想良くしないと冷たく見える事に変わりないじゃないか」
「慣れない事はするな。でないと、俺が妬く」
 最後にまたにとって反応し辛い事を言ってから、尾形は再び歩き出した。
 そうして、二人は思ったよりも時間を掛けながら店が数件建ち並ぶ界隈まで戻ってきていた。は何か確かめるように辺りを軽く見渡すと、先をゆく尾形の背に問い掛ける。
「よく私があそこにいるって分かったな」
「あまり広い村では無いからな」
 尾形はそう言うが、実際歩いてみると決して短い距離でも無い。
 彼が言うよそ者への警戒心とやらも関係しているのか、この村では外を歩く人の姿もほとんど見当たらなかった。それに例え人がいたとしても──、彼の言う通りだとすると思いのほか探し回らせてしまったのかもしれないと、は申し訳ない気になった。
「(私もすれ違ったのはあのロシア人の男くらいだったか……)」
 自分達の“言葉”が通じていないと思ったのか。黙っているに対して、最後は好き勝手な事を吐き捨てていたあの男の事だ。
 男が先程までいた場所に視線を送る。尾形はそれを肩越しに振り返るように見て、また何も言わずに顔を戻した。