「だーかーらッ、一番強い酒だって。これはその辺りの店でも普通に出してるやつだろ?」
 店のカウンター越しに白石が身振り手振りを交えて説明するも、言葉が通じない酒屋の主人にはいまいち伝わっていないようだった。
 主人は白石の言葉に頷いては、また彼が求めているのとは別の酒瓶を背後の棚から選んで差し出す。先程からもう何度も繰り返されているこのやり取りに辟易としていた白石は、遂に我慢ならず主人に指先を突き付けた。
「このっ……、和人に出す酒はねえってか!?いくら言葉が通じねえからってこの程度察する事が出来ない野郎は女にも縁がないに決まっ、ごべんなざい!」
 ベチン!と主人の太い腕から繰り出される平手を食らった白石は、赤くなった頬を摩りながら涙目で店をあとにした。
「くそ、何で悪口だけは通じるんだよ……。やっぱりちゃんに頼、……んだら意味無いか……」
 こちらで買い物や交渉をする際には、言葉の分かるキロランケやに間に入ってもらうのが常となっていた。だが、今回に限ってはそうもいかない理由があるのだ。
 なんだ、お前ら酒が入ったを知らないのか──アシパとが先に寝入った後の雑談で、キロランケが少し意外そうに口にしたのはつい昨晩の事である。
 きっかけは、こちらの人々は酒量が多い気がするとか、確かそんな話からだ。キロランケの含みのある言葉に好奇心を擽られた白石らが追求するも、彼は面白がるように「さあな」だの「気になるなら今度試してみたら」とはぐらかすばかりであった。
「(俺の勘に間違いがなければ、あれは絶対に酒が入ったら“スケベ”になるやつに違いない……!)」
 昨晩の事を思い返しながら、悶々とした妄想に取り憑かれた白石はその場で足をぴたと止めた。現在滞在中の小さな村に、酒屋は先程の一軒しかない。再び顔を出すのは相当気まずいが、こうしている間にも妄想は膨らむばかりである。彼は渋々踵を返す事にした。
「あれ、尾形ちゃん」
 白石が店に戻る道をしばらく歩くと、そちらから来る尾形の姿を見つけた。気が付いた尾形が視線を向けると、白石は彼の手にあるものを見て「ああ!」と驚いた声を出した。
「その酒はッ!俺がさっきのおっさんにどれだけ言っても出してくれなかったやつ!なんで、どうして尾形ちゃんが持ってるの!?」
 興奮する白石に対して、尾形は特に表情も動かさずに紐で吊るしていた酒瓶を持ち上げた。
「どうしてと言われても……、買ったからだろ」
「嘘でしょ!?俺の時は全然言葉通じなかったぜ?」
「……そうだったか?」
 あの苦労は何だったのかと納得がいかず唸る白石だが、そこで何かにハッと気が付くと表情を変えて尾形に問い掛けた。
「もしかして、尾形ちゃんもちゃんに飲ませる気で……?」
「…………」
 その問いには答えず沈黙を守る尾形に、白石はゴクリ……と喉を鳴らす。そうして、二人はそのまましばらく向かい合っていた。


 + +


 明日の昼前、行商に出るソリに乗せてもらう事が決まり、今夜がこの村で過ごす最後の夜となった。
 村に宿はなかったが、一行は代わりに外れにある空き家を使わせてもらっていた。今はこうしてたまに訪れる旅人にのみ開放しているという古い建物の中は、家具の類は一切無くがらんとしている。唯一部屋の隅に忘れられていたように置かれていたベッドをアシパに充てがうと、大人達はそれぞれ床に寝そべって身体を休める。
 ところが今夜は遅くまで、窓から漏れるランプの灯が煌々と灯ったままであった。
「相変わらず、これぐらいじゃ顔色ひとつ変わんねえなぁ」
 キロランケの愉しげな声に、は彼の方へと顔を向けた。自身の腕を枕に横たわる彼は言葉通りどこか懐かしむような、そして身内の深い情に満ちた眼差しをに向けている。
 だが今はそこに酒が入っているという事もあって素直に受け取る事が出来ないは、かかと陽気に笑う彼に眉を顰めて返した。
「声はあまり大きくしないようにって……、アシパは寝てるんだから」
「おお、そうだったそうだった」
「もーキロちゃんってば、ちゃんに怒られるの何回目〜?」
 そこにウフフと笑って加わってきたのは、白石だ。
 彼も今はご機嫌にしているが、とうに酒の許容量は越えているようで、既に何度も部屋の外に出ては“戻して”いる。その顔色も、もはや血色がいいのか悪いのか、よく分からぬ状態だった。
「それにしても、俺達と同じ量は飲んでるはずなのに、ちゃんって相当お酒強かったんだねぇ。キロちゃんには騙されたな〜、本当にさ〜〜」
「なんだ、俺は何も嘘は吐いちゃいないぞ?」
「何の話……?」
 珍しい酒が手に入ったからと、白石の提案で開かれた酒宴。一口目で舌や喉に軽い刺激を感じたものの、特にいつもと変わりなかったに対して、同じように酒を煽った他の面々の手はなぜか一様に止まっていた。
 そうこうしながらも飲み続けた結果、出来上がったのはこうしてすっかり酔い潰れた男が“三人”というわけだ。
「ん……、尾形は寝ちまったのか?」
「寝息がしてるから、多分」
 キロランケに言われ、は自身に寄り掛かって眠っている尾形をチラと窺った。
 酒に酔った白石とキロランケが機嫌良く語らい始めた頃。尾形は突然立ち上がるとの元までふらりとやってきた。そして警戒する彼女をよそに、黙ってその場に腰を下ろしたかと思えば、いつの間にかすうすうと眠り込んでしまったのだ。
 特にこれといった害はないが、体格差がある男に体重を預けられていては、そもそも身動きすらままならない。どうしたものかと考えたは、そこで思い出したかのようにキロランケへと協力を求めた。
「そうだ、キロランケなら運んであげられ」
 しかしが声を掛けるも、キロランケは頭を下げて眠り込んでしまっていた。これまでの付き合いの長さもあって、彼に対して他より遠慮が無いは、大いに呆れた表情をみせる。
 こうなると、残るは白石に頼るしかないのだが、既に何度かこの場を退出している彼に対しては、むしろ大丈夫なのかという不安な気持ちの方が強かった。
「あの……、シライシ。出来たらで構わないんだけど、尾形の事を運んでやってもらえないかな」
「んえ……あ、尾形ちゃん?」
 白石は一瞬かくんと船を漕いだ頭を持ち上げると、らの方をへらりと指差しながら続けた。
「尾形ちゃんは絶対起きてるでしょー、それ」
「え!?」
 驚いて思わず大きな声を出してしまったは、慌てて自身の口を押さえた。
 おそるおそる尾形の方を見るも、その静かな寝顔に変化は無く。しかしは先程よりも声をひそめるようにしながら、白石に向かって小さく首を振って返した。
「寝てる……」
「いいや、怪しいもんだね。協力体制取ってたはずが、いつの間にか自分だけそんな場所にいるんだもんなぁ……。試しに乳首のあたり強めに抓ってみたら?」
「それだと寝てたとしても起きてしまうのでは」
 の肌を掠める吐息、上下する身体の体温──おそらく酒を飲んでいるからだろうが──それらは生々しい熱をはらんで、密着する彼女の半身へと伝わってきていた。
 とてこの状態は相手が酔っ払っていて、且つ、睡眠下にあるからこそ許容出来ているだけの事だ。もしも白石の言う通り尾形が起きているのだとすれば、それまでの認識を根本から覆されてしまうとすれば──一度植え付けられてしまった疑念はどんどん膨んでいく。
 もはや隣をまともに見られずにいるとは対象的に、白石は尾形に相変わらず怪しむような視線をじろじろと向けていた。
「ん〜……でも俺が同じ状態だったら半勃ちぐらいはありそうだし、こりゃ本気で寝てるのかも……」
「それじゃあ」
「ただ、酒で勃ちづらくなってるって可能性が……」
「そ、そんな可能性も……?」
 縋る相手が白石しかいないは、ほぼ下半身に重心を置いた彼の推理にも疑問を持たず応じていた。
「抓るか……握る、か……」
「…………シライシ?」
 あげくとんでもない事を言い残して、白石はついにぐうぐうといびきを掻き始めてしまった。
 酒の匂いが充満する中、残されたの頭の中には白石が残した言葉が反芻される。そうしてが手のひらに視線を向けると──、そこに自分以外の何者かの圧を感じた。

 はっきりと、紛う事なく。
 瞳を開けた尾形が、の手をじいと見ていた。

 の手のひらに汗が滲む。尾形はそこからの顔へと視線を移すと静かに口を開いた。
「“どちら”にしようと?」
「それは……何も、本気でやるつもりでは」
 口籠るように応えながら、は改めて今の状況を思い出してハッとした。
「シライシの言った通りずっと起きてたのか」
「ずっとじゃない。お前たちがくだらない話を始めてからだ」
 尾形はまだ酒が抜け切っていないようで、言葉の途中で眉間に皺を寄せた。
「ザルにも程があるだろ……、鈍いを通り越してどこか神経がいかれて……」
 すると尾形はに向けた視線を、ふと彼女のこめかみ、傷跡付近へと動かして。
「……ああ」
「言っておくけど、元々の体質だから」
 何か勝手に納得している尾形に、は表情を引き攣らせながら返した。
 同じ頭部の怪我でも脳みそが吹き飛んだ訳でもなし。まして怪我の原因でもある相手から悪びれもせず、酒への耐性を鶴見のそれと同様に見なされるのは、彼女としては当然文句の一つでも言いたいところだ。
 中途半端に目を覚ましてしまったせいで不安定にぐらつく尾形の身体を支えるようには手を添える。
「もう横になった方がいいよ」
「……今起きているのは、俺達だけか?」
 そうだ、と答えようとしたの脳裏に、先程の白石との会話が過った。
 “協力体制取ってたはずが、いつの間にか自分だけ”──その言葉の意味を推し量る事が出来ない程、も鈍感では無い。それまでの会話の中にも、おそらく白石らがキロランケにからかわれたのだろうなと思える箇所はいくつもあったが、自分さえいつも通りにしていれば問題無いと思っていた。
 “意識をしないように”と意識しはじめてしまったに対して、尾形は彼女を見ながらもまた何か別の事を考えているようだった。気が付いたがその様子を窺っていると、彼はおもむろに地面に身体を横たえた。
「え?」
 思わず声を出してしまったに、尾形は自身の腕を枕にしながら、肩越しに振り返る。
「何だ」
「!いや、別に」
 すると尾形は瞳を眇めて、気怠そうに溜息を吐く。
「今夜は俺も加減を少し誤った。相手ならまた今度してやる」
「相手って……」
「物欲しそうな顔せず、さっさと寝ろという事だ」
 最後の方はうとうとと、夢うつつに言い残して、尾形は再び寝入ってしまった。
「物欲しそうな、顔……?」
 そして、一人残されたが呆然と呟く声は、男達の寝息に掻き消されたのだった。


 + +


 翌日は大人達が寝坊したせいで、いつもより朝の支度が遅れてしまった。アシパは、キロランケに対してぐっと威嚇するように顔を顰める。
「酒クサイッ!」
「すまんすまん。久々で、少し飲みすぎたな」
 そんな彼らからは少し離れて、白石は黙々と荷物をまとめている尾形の肩を指先で軽く突いた。
「尾形ちゃん、あの後ちゃんに何かした?何か、俺達にだけ態度がよそよそしい気が……」
 白石の言葉を聞いた尾形は、アシパらの会話に混ざって笑みをみせているへと視線を向けた。するとも一瞬尾形らの方へと顔を向けるが、それはまたすぐに戻される。
 彼女の態度に対して特に思い当たる節の無い尾形は白石に向かって首を振る。しかしあくまで彼を怪しむ白石は、すんっと真顔になって迫った。
「嘘だね、俺が寝た後におっぱいくらいは触ったんだろ……」
 白石は更に尾形に顔を寄せる。その口から酒の匂いと不平不満が濃く残った息が深く吐き出されると、尾形は眉根を寄せた。
「抜け駆けしないって言ったのになぁ……。そもそも上手く誘ったのは俺なのになぁ……」
「息がくせえ」
 まだまだ言い足りなさそうな白石は放っておいて、尾形は昨晩の記憶を辿った。
 多少酒に酔った事は認めるが、記憶はしっかりしていてとのやり取りも覚えている。その上で、彼には本当に心当たりというものが無かったのだ。

 それならば直接本人に聞けばいいと。尾形はの元へ行き声を掛けた。するとはそれまでアシパらにみせていたものとは違い、気まずそうな表情を彼に向けた。
「(確かに何かはあったか)」
 の反応から咄嗟に判断し、尾形はいかにも申し訳なさそうな表情を作り自身の頭に手を置いた。
「謝ろうと思ってな。俺は昨晩の記憶が曖昧だが、何か気に障る事をしてしまったようだ」
「!それは、謝るのは私の方ではないかと……」
 の意外な返答に、尾形は軽く眉を上げる。するとキロランケが面白がるようにその会話に加わった。
「って事は、今回に脱がされたのは尾形か」
「……あ?」
「キロランケ!」
 尾形が怪訝そうに返すと、はキロランケの言葉を制止するように慌てて声を上げた。
「昨日はそこまではしていない。少し酔ってしまっただけだ、多分」
「なんだ、そいつはまたお前らも飲ませ損だったな」
「……酔った?酔ってたのか?……あれで?」
「いや。そんな事より、追求しなきゃいけねえ事があるだろ」
 いつの間に復活したのか、白石がやけに凛々しい表情でキロランケの肩に手を置いて彼らの輪に加わる。当然は気が進まないような顔はしていたが、話を止めようとまではしなかった。彼女に代わってキロランケが話し出す。
の場合まあ相当量飲まなきゃ何も起こらずに終わるんだが、“くる”時は突然くるんだと。これで案外人見知りだから、以前別のコタンの連中と飲んだ時は緊張して随分飲みすぎたみたいでな」
 キロランケが意味深に言葉を区切ると、尾形と白石は本人の方へと視線を移す。すると彼女は視線を泳がせつつも観念したように口を開いた。
「いや、何か、急に人の服を剥ぎたくなって」
「なぜ」
 尾形からの冷静な疑問が重く伸し掛かり、は言葉に詰まった。それを見てキロランケは声を出して笑う。
「それまで端の方でしっとり飲んでたいい女が豹変したもんだから皆驚いてな。俺の記憶だと、あの時は確かキラウもいたんだが……」
「でも釧路で久々に会った時は何も言ってこなかった。多分嫌われてると思う」
「いや、どちらかというとあれは……まあ、でもアイツは全部脱がされてたからな」
 そこで、下唇を噛んで悔しげに呻くのは白石だ。
「まさかもう少し粘ればそんな素敵な事が待っていたとはッ……、てっきりキロちゃんに担がれたのかと思ったぜ」
「嘘は吐いちゃいないって言っただろ」
 自身の醜態についてのやり取りが交わされる間、は肩身狭そうにしていた。今思い返せば、昨晩も熱っぽい感覚のまま尾形からの指摘で冷静になっていなければ、どこかで我を失って彼の服に手を掛けていたかもしれないのだ。
 その尾形は既に一歩引いたような位置から事の流れを傍観していたが、と視線を合わせるとからかうように口角を上げた。
「酔って相手を脱がしたくなるというのは、どういう心理からだ?記憶はあるんだろう」
「そ、そんな事言われても、私も何かを考えてるわけじゃないから」
 辿々しく応えるを、尾形はじっと見る。やがて耐えきれなくなった彼女が口を紡ぐと、彼はその機を見計らったかのように追撃した。
「変態」
 やはり言い返せず。その四文字を鳩尾深くに食らって呻くを、耳を塞がれたままのアシパは怪訝そうに見上げたのだった。