雪に覆われた林の中を、アシパは器用な足取りで先行していく。彼女の後にと共に続いていた白石は、寒さで赤くなった鼻をむずむずと動かした。
「ふ……っくちゅん」
 ついに耐え切れずといった感じで白石が可愛らしいくしゃみをしたのと同時、アシパの視界の先にいた小さな獲物は弾かれたようにその場から駆け出した。あっと声を出したアシパは拳を振り上げて怒ったように振り返る。
「シライシ!大きな声を出さないように言っただろう!」
「てへ、ごっめーん。我慢してたんだけどね」
「我慢するというなら、口も鼻も死ぬ気で塞げ。本当に愚図だなお前は」
「ええ……そんなにぃ……?」
 思った以上の罵倒に表情を引きつらせる白石に、はその隣で瞳を細めた。
 アシパが再び足を進めだすと、は声を潜めて彼に話し掛ける。
「ありがとう、シライシ」
「……へ?何が?」
「わざわざ私達の方についてきてくれて。本当は宿で休んでるか、きれいな娘たちの所へ遊びに行きたかっただろう」
 申し訳なさそうに目を伏せて言うに、白石は一瞬図星をつかれたかのようにバツの悪い表情を見せた。が、すぐにいつもの軽い調子で返す。
「いやいや、たまには動かないと俺の男前っぷりも鈍っちまうしさ。それに店も一応覗いちゃみたがハズレっぽかったし、あれに金使うくらいならちゃんの可愛いお尻を追いかけてた方がずっと良いってね」
「悪気は無いのは分かるぶん、色々と台無しだなぁ」
 途端距離を置くように遠い眼差しを浮かべるに対し、白石はいまいち分かっておらず首を傾げる。
 それでも、白石が“こちら”にいてくれて良かったというのはの本心だ。網走の後はさすがにしばらく落ち込んでいたように見えたアシパが、先程のように以前の調子を取り戻したのも、おそらく白石の存在が大きいだろう。そんな彼らの姿はまるで温かな陽の光のように、にとっても拠り所となっていた。いつか全てを終えてまた元のように過ごせる日が来ると。
 いずれまた、“元のように”──。


 背後から掛けられた声に、思考に耽っていたの意識は再び白銀の景色へと引き戻された。彼女より先に振り向いた白石は、やや傾斜となっているその道を登ってくる人物の姿を認めて意外そうな声を出す。
「あれ?尾形ちゃん、確かキロちゃんと一緒に街の方に出てたんじゃないっけか」
「元々別行動だ」
 そう言って、尾形は途中で足を止める。
「物資を調達しようにも、うまく言葉が通じなくてな。そいつをこちらに寄越してくれ」
「あ〜……でも悪いんだけど、ちゃんは今俺と一緒にアシパちゃんの」
「シライシの面倒なら私一人で大丈夫だ。は尾形の方に行ってやってくれ」
 白石の言葉を遮ってアシパがやや離れた位置から声を掛けると、もそれならと頷いた。
 雪の斜面を足を滑らせない様に降りるに、尾形が下からすっと手を差し出す。も気が付いて一瞬そちらに目をやるも──そのまま降りて、彼の隣に並んだ。尾形は目を薄くしつつ、差し出していた手を下ろした。


 + +
 
 
 道は途中から、街に戻る方角からは段々と外れ始めていた。
 およそ全てから隠された深い林の中、雪を踏みしめる二人の足音が響く。前方で木の枝がしなると、バサッと音を立てて雪の塊が地面に落ちた。すると、そこでおもむろに足を止めた尾形がの方を振り返る。
 彼は、自身の後に続いてきた彼女の姿をそこに認めるとふっと息を漏らした。
「連れ出す為の口実だと、分かっていただろう」
 互いの口元に白い息が上がる。少しの距離を取り、も彼に合わせて足を止めた。
「私はただ、アシパ達に聞かせられない話でもあるのかと思って」
「聞かせられない?聞かれたくないのは、そちらでは?」
 尾形からの指摘には口を噤む。
 彼が自分を連れ出した時点である程度予期していた事とはいえ、続く決定的な一言を拒否するかのように、ここにきて心臓が早鐘を打ち始めていた。尾形はそれすら察したうえで──この瞬間を待ちかねていたように──その事実を彼女に突き付ける。
「撃たれた時の記憶が戻っているな」
 は否定も肯定もしなかった。
 ただ一瞬、傷付いたような顔をして瞳を伏せる。尾形にとっては、それだけで確信に至るに充分であった。とは対象的に喜びに目を開くも、それを彼女には悟られぬように再び表情の奥へと押し込めて続ける。
「いつからだ?」
「はっきり、いつとは言えないが……」
 誤魔化しきれぬと悟ったのか、も観念したように話し始めた。
 網走の後に樺太に渡ってきてから、それまでずっと靄が掛かっていた記憶が突如輪郭を持ち始めている事に気が付いた。
 場面場面は断片的で、色や音すら無く。倒れている自分を俯瞰するような視点は、日毎記憶を取り戻すにつれ徐々にその身体へと降りていく。
 世界が変わったのはその瞬間だ。
 焼けるような痛み、乱れた呼吸。少しでも意識を繋ぎ止めるために濡れた地面を掴む血に染まった手。その先に、今は見知った男の顔があった。
 それまで言葉を選ぶように続けていたがそこで沈黙すると、尾形はふむと顎に指をやり唸った。
「記憶が戻ったきっかけは分からず、それも全て思い出したわけでもないという事か……」
 は尾形の態度に戸惑いを覚えていた。
 言うなれば、今の自分は追求者であるはずなのだ。ところが目の前の相手には追い詰められている様子が全く無い。むしろ立場は逆であるような気さえした。
 すると彼女の様子の変化に気が付いた尾形は一度目を瞬かせると、得心がいったとばかりにそれを薄く細めて。
「だが、俺の事は思い出してくれたんだろ?」
 あの日、を撃ったのは自分なのだと──彼女の傷跡を示すように、自身の額を指先でトントンと軽く叩きながら。
 動揺するでも申し訳なさそうにするでもなく、まるで親しい既知との再会を喜ぶかのように、尾形はそう言ったのだった。
 からすると、頭が真っ白になるとはこの事だ。彼の反応はいくつか想定していた中の何れにも当てはまるものではなかった。が、やけに腑に落ちるものでもあった。
「つくづく、よく生き延びたものだ。あれだけの出血であれば、十中八九くたばったものだと思ったが」
 そして、尾形からの感心するようなその一言で、ついに彼女も吹っ切れて大きな声を上げた。
「し……死にかけたぞ!あの時は一度心臓も止まったって皆から言われたんだから」
「そうでなくては自信を無くしてしまう。こちらも一応は殺すつもりで狙ったのだからな」
 まるで他人事のような尾形に反感を覚えたが言い返そうとすると、彼はふと視線を伏せた。
「俺も言い訳をする気はない。あれは当時の上官命令でな……」
 含みのある言い方をして、尾形は上目遣いに視線を上げながら再び彼女の反応を窺った。
「鶴見中尉が?」
 はこれまでの会話の中で一番強い動揺を見せた。彼女は尾形からの視線を追求のようなものと受け取ったのか、言いづらそうにしながら続ける。
「実は……私が療養中、訪ねてきた軍人がいて。あれは、今思うと鶴見中尉だったと思う」
「……何?」
 すると尾形の反応には、それまでとは違って、どこか素に近い違和感があった。しかしは自身の記憶を手繰り寄せるのに必死で、気が付く事が出来ない。
「尾形に命令して私の状態を確かめにきたという事なら、なぜ何もせずに……」
「待て。お前は突然見知らぬ軍人が訪ねてきて、それを受け入れたのか?」
「あの時は、“彼”の事を報せに来てくれた。私の事は彼から聞いていたと」
 の言葉に、尾形は眉を顰める。
「はじめは親切な人だと思ったけど、彼がどうやって死んだのか知りたくないかと聞かれたんだ。穏やかなままの口調が私はやけに恐ろしくなって……断ると、それ以上は何も言わずそのまま帰ってしまった」
 尾形と話すうちに戻ってきたまばらな記憶が、を益々混乱させた。
 何か、重要な事が抜け落ちている。大きな思い違いをしているような気持ちの悪い感覚だけが確かにあって、彼女は思わず自身の身体を抱いた。
「──気を確かに持て」
 が肩に手を置かれた感触に顔を上げると、尾形がそこで気遣うような眼差しを彼女に向けていた。
 雪の反射光に白く輝く景色の中、太陽を背にした彼の顔には薄暗い影が掛かっている。
「こちらに来てからお前の様子がおかしかったので一度話をしたかったんだが、かえって混乱させてしまったようだな」
「そんな事は……」
「俺も鶴見中尉がなぜお前の事を命じたかは分からん。……推測だが、その男が軍で重要な立場にあったとしたら、男を通してお前に何か知られたくない話でも伝わっていないかと懸念したんだろう」
 も、その話には納得する。
 鶴見の用心深い性格は今となってはよく知るところであるし、その可能性以外には心当たりも無いからだ。
「元より、相手の心理を惑わす事に長けた人間だ。本当に何も知らないか様子を探りにきたついでに、傷心の娘を適当な言葉で揺さぶって、手駒にでもしておこうとしたのかもしれん」
 しかし。記憶の抜け落ちている箇所をちょうど補完するかのようなそれは、当時の事を長い間思い出せずにいたにとって、あまりにも出来過ぎた話に聞こえてしまっていた。
 尾形は、そんなを静かに見据える。
「記憶が戻った事は他の奴らには黙っていた方がいいんだな?」
 そこではハッと我に返り、頷いた。
「!そうしてもらえると……、まだ自分でも自信が無い部分がある以上は、余計な心配は掛けたくない」
「分かった」
 尾形の言い方で、は彼がこの話についてはここで切り上げたように感じた。
「もう良いの?」
 再び歩き始めようとした尾形にが声を掛けると、彼は動きを止めて僅かに口角を持ち上げた。
「ああ、俺も確かめたかっただけだ。知らないうちに背後から刺されてはかなわんからな」
「いや、刺さないけど。……刺されてもおかしくない事は分かっているんだ」
「お前が俺と同じで、根に持つ性格じゃなくて良かったぜ。まぁ、気が変わったならいつでも好きにしてくれ」
 自身の脇腹の辺りを指先で示しながらからかうように言う尾形に、は呆れた表情をみせた。
 実際ただ命令で動いただけという尾形に対して向ける感情は無いが、それを本人から言われると図々しさを感じてしまう。そんな事もあり、先程まで漂っていた緊張感はどこかにいき、結局いつもの調子に戻ってしまっていた。

────「愛してやるぜ、お嬢ちゃん」

 あれはいつだったか。随分昔に感じるが、焚き火の灯りの前で、尾形から告げられた言葉が一瞬の頭を過る。いくらか記憶を取り戻した今となっても、それについては心当たりが無いままだ。
 の視線に気が付いた彼は少しだけ不思議そうな顔をしてから、思い出したように続けた。
「俺もお前が生きていてくれて嬉しいよ」


 + +


 街に一つだけある食事処は、夕暮れ前の中途半端な時間帯というのもあって、彼らの他には普段から入り浸っている常連客のような姿しか見られなかった。
 周囲の酔客が異国語で賑わう中。尾形からの報告を聞き終えたキロランケは額を押さえてから、正面の席の彼に視線をやった。
は、お前があいつらを撃った場面は見ていなかったんだな」
「記憶を取り戻したきっかけは間違いなくそこだろうがな。その点に関しては無意識で、どうやら狙撃手が俺という共通項にまでは結びついていないようだ」
「実際は見ていて……、誤魔化しているという事は」
 重たげな口調で聞くキロランケに対して、尾形はいつも通り冷静だった。
「無いな。あいつが記憶を無くした後、鶴見中尉が訪ねているそうだ。それについては?」
「鶴見中尉が?いや、初耳だ」
「……その時にいくらか会話もしている。そのせいで余計混乱しているのかもしれん」
 それを聞いても険しい表情のままのキロランケに、尾形は皮肉るような笑みを向けた。
「よかったじゃねえか。どうせあんたには殺せなかっただろ」
「!俺は……っ!」
 言い返そうとして、キロランケは言葉を飲んだ。
 ここでそうじゃないと言い切れるならば、そもそも尾形に確かめさせるような真似はしていない。それはキロランケ自身がよく分かっていた事だった。
 かといって一時的に協力関係を結んだような形となったこの相手についても、キロランケは完全に信用しているわけでは無かった。特にとの事については本人が多くを語らない為、未だ不審に感じるところが多々あった。
「お前だったらやれたのか?」
 キロランケがそう投げ掛けると、尾形は僅かに目を開き、少し考えてから彼の問いに答えた。
「そうだな……、難しいかもしれん。記憶が完全に戻っていたなら聞きたい事もあったんだが、あてが外れてしまったからな」
「聞きたい事?何の事だ?」
 当然のように応えず笑みをみせるだけの尾形に、キロランケは苛立ちを募らせた。彼は思わずテーブルの上に身を乗り出すと、その勢いのまま開きかけた口を一旦閉じて、抑えた口調で続ける。
が撃たれた時は俺も近くにいたんだ。本人からどう聞いたかは知らねえが、あいつは死ぬところだったんだぞ」
「へえ。そう言えば俺もアイヌの男を見掛けたが、その時に会っていたかもな」
「お前」
 更に続けようとしたキロランケだが、そこで再び言葉に詰まる。もしもがインカラマッのように、樺太での自分達の行動を目撃していたのなら──と。そんな自分が、尾形に対して何を言えるのか。
 キロランケが黙り込んでしまうと、それまでわざとらしいほどにこやかだった尾形の表情も冷めたものへと変わった。そのままふと外された眼差しは、そこでまた僅かに愉しげな色を宿す。
「さて、どちらが思い出すのが先か」
 店の窓の外には、街に戻ってきたアシパと白石とが、彼らを探している姿が見えていた。