札幌までの道中に立ち寄ったそこはあまり大きな街ではなかったが、様々な商店が密集するように建ち並び、人々からも賑わいが感じられる活気のある場所だった。
 旅支度を整えるのにはちょうど良く、実際に杉元らと同じくよそからやって来たであろう大きな荷を背負った者達の姿も街中には多く見られる。
 一行はアシパと杉元が先を行き、少し遅れて白石とと房太郎がその後に続くという形を取っていた。そして更にその後ろから、ヴァシリは付かず離れず彼らのあとをついてきている。
 すると興味深げに辺りを見渡していた房太郎が、ふと自身の前を歩く白石の頭に視線を止めた。
「シライシぃ〜、頭にチン毛ついてるぞ」
「は?」
 白石は怪訝そうな表情で振り返る。
「嘘つけ。いきなりチン毛とかガキかよ」
「嘘じゃねえって。──よっ、と」
「い゙っ!!」
 房太郎はおもむろに手を伸ばすと、白石の頭から一本の毛をぷちっと引き抜いた。彼は指で摘んだそれを確認するように、自身の眼前へと近付ける。
「剃り残しかぁ?網走にいた時も思ったが、お前案外伸びるの早いんだよな」
「痛えな、急に抜くんじゃねーよ!つうかチン毛じゃねえし髪の毛だし!」
「似たようなもんだろ、どっちもモジャモジャしてるし」
 笑いながらからかう房太郎の言葉を聞いて、白石の隣を歩いていたも、興味を引かれたように彼らの会話に加わった。
「シライシ髪の毛モジャモジャだったんだ」
「違う違う。あれは房太郎が強く引っ張ったからそういう感じになってるだけで、本当はあそこまでじゃないから」
「まあ、緩い癖毛か。一度伸ばしてみろよ。雰囲気変わって今よりは女にモテるようになるかもしれねえぞ、俺みたいに」
「お前は長すぎるんだよ」
 得意げに自身の髪を掻き上げる房太郎に、白石が呆れた声を出した。
「髪はアイヌの男も長くしている事が多いけど、確かにそれぐらい長い人は珍しいよ。何か理由でもあるの?」
「理由?」
 からの問いを受けた房太郎は、不意を突かれたかのように目を開いた。しかし次の瞬間には、ニッコーと人当たりのいい笑顔を作り彼女に向ける。
「母が髪の綺麗な人で、だからかな。兄弟の多い家だったから特別手をかけられた記憶もないんだが、いざいなくなっちまうと、やっぱり男ってやつは女親が特別恋しくなるもんなんだなと思ったね」
「それもよく聞くけど、俺みたいな親の顔も覚えてないような奴にはいまいちよくわかんねえんだよな。ちゃん分かる?」
「想像は出来るよ」
 家族の無い事は珍しい話ではないが、親しい間柄でも容易に触れづらい話題である事は違いない。しかしそういった配慮の無い白石からの問い掛けはむしろにとっては気楽であり、彼女も笑いながら返した。
 房太郎がそんな二人を見ながら瞳を薄くしていると、前方から彼らを呼ぶ杉元の声が届いた。



 + +



 その後、一行は落ち合う場所を決めて各自必要なものを街で調達する事となった。は特にいるものは無かったのだが、折角なのでと街を散策する。
 鼻から深く息を吸い込むと、人々の暮らしと共に長く染み込んだその土地独特のにおいがする。自身周りの人より多少鼻がきく事が関係しているかは分からないが、その違いは彼女にとってこの旅を続ける中でもとりわけ興味深いものであった。
 そして今至近距離から香るのは──むせ返るような、濃い酒の匂い。
「知ってるどぉ、俺は知ってるどオメェ〜……」
 酒によって赤くなった顔を近付けて、男は先程からに対して同じ言葉を繰り返していた。
 男の背丈は女性の中では高い方と言われる事が多いと同じくらいで、浅黒く焼けた肌には深い皺が刻まれており頭髪も一部白髪交じりであったが、の印象では見た目ほど年はとっていないように思えた。まだ昼間だというのに余程飲んでいるのか目は赤く充血しており、焦点の合わない眼差しを彼女に向けている。
 ここは商店の建ち並ぶ比較的広い通りのため、目の前を塞ぐ男を避けて通る事も出来たのだが、はつい聞き返していた。
「知ってるというのは、何を」
「全部に決まってんだろうが!お見通しなんだよ!!」
 そして。聞き返した事を、すぐに後悔した。
 こういう手合いにはがよく使うあなたの言葉分かりません戦法もきかない。なにせこちらが何を言おうと聞こうと関係無いからだ。
 こうなっては最早立ち去るしかないと判断しただが、それを逃すまいとするかのように男が続けた言葉に、思わずその足を止めた。
「アイヌなんかに化けやがって!知ってるぞ、俺はなぁ満州に行ったから“お前ら”の顔はよく──」
 すると男はそこで言葉を飲み込んだ。
 何かを見上げるような姿勢で数歩後退りした男は、最後を睨み付けてからふらふらとその場を離れていく。その危なっかしい後ろ姿を見送り、は背後を振り向いた。
「どうする?元々大した本数残っちゃいなさそうだったが残りの汚え歯も全部いっとくか」
 そこで物騒な物言いに似つかわしくない笑顔を浮かべて、拳を手のひらにぱしぱしと打ち付けるのは房太郎だった。
 むしろの返事を待たずして行こうとする彼を、彼女は引き止める。
「いや、いいよ。よくある事だし、余計な騒ぎは起こしたくない」
「おおそうだよなあー。騒ぎにならないように、やるなら半端にじゃなく、きっちりと最後まで始末つけた方がいいよな」
「そういう意味じゃなくて」
 すると房太郎はやり場の無い拳を無言でもう一度手のひらに打ち付けてから、それをぱっと開いてに向けた。
「俺の花嫁殿はお優しい……。その寛大な御心に倣って、今回は俺も大人しくしておくかね」
「棘のある言い方だな……」
「そりゃそうだろ」
 が指摘すると、房太郎は不満げな表情を隠す事なく腕を組んだ。
「よくある事って言ったな。だが俺の大事な人を侮辱するっていうのは、俺自身を侮辱する事かそれ以上の意味と同じだ。だから次はねえ、殺す」
 そう一切ふざける様子の無い様子で言い切られると、も返す言葉に迷った。戸惑いの中に正直いくらか感謝のようなものもあるが、何となくその感情を房太郎には悟られたくはなかった。
 しかし俯いたに対し房太郎は目を開くと、ははあと何かを察したかのように腕を組んだまま大きな身体を屈め、彼女の顔を覗き込んだ。
ちゃん、お顔見ーせて?」
「私にかまう暇があったら自分の用事を済ませた方がいいと思う」
「いや、俺の用事は何も」
 その時だ。互いにクンッと引っぱられるような感覚がして二人はの首元に同時に視線を落とす。
 は普段からレクトゥンペと呼ばれる古銭を縫い付けたアイヌの首飾りをつけている。見れば、その古銭の部分に房太郎の長い髪の毛先が引っかかってしまっていたのだ。
「ごめん、すぐにほどくから」
 が絡まっている箇所に手を掛けるも、そこは見た目以上に複雑に絡んでしまっていた。苦戦するに対して、房太郎は特に焦る様子も無く余裕ある態度で屈めていた身体を起こした。
「なに、毛先の方だろ。面倒なら切っちまえばいいさ」
「私のマキリだと綺麗に切れないから駄目だよ。理由があって伸ばしてる髪なんだろう」
 の返答に房太郎はぱちくりと目を開いた。一方そんな彼の様子にも気がつく事なく、髪をほどく事に夢中になっていたは、ようやくそこで別の方法に気が付く。
「あ、そうか。まず私がこれを首から外した方がいいよね」
「それなら俺が外そうか」
 ギチィッ……!!と、布同士が擦れて引き締まるような音がした。
 いつの間にかの背後に回っていた房太郎が、先回りするようにレクトゥンペの結び目に手をやっていた。が振り向くと、房太郎はそこからお手上げとばかりにパッと手を離す。
「あ〜〜、無理だなこれ。取れねえわ」
「そ、そんなこと無いはずだけど。そこまで固く結んでないよ」
「本当だって。触ってみ」
「……ぐ、固っ」
 僅かな可能性すらも感じない程、そこはギチギチに強い力で締められていた。
 思いつく手が尽きたは、自身の首元から絡む長い髪の毛を辿って改めて房太郎を見上げる。こんな状況にも関わらず、彼は楽しげだ。
「こうなっちゃ仕方がねえなぁ。しばらく一緒に行動しないと」
「それじゃあアシパ達と合流しよう。何か使える道具があったかもしれない」
「合流……。……その前に、俺の用事から済ませても?」
「え。あ、ああ」
 不意の申し出にが思わず頷くと、房太郎は笑みを深めた。
 聞けば──元々、偶然にも、彼は“理髪店”に行くつもりだったという。
「さっき歩いている時に見掛けてな。いい機会だし少しばかり切ってもらおうかと思ってたんだが、こうなるとちょうどいいだろ」
「それはそうだけど……、本当にこの道しか無いのか」
 彼らは今、房太郎の案内で街の細い路地に入り込んでいた。おそらく誰かとすれ違うことすら難しいそこに彼ら以外の気配は無く、建物と建物の間にある為、日中だというのにやたら薄暗い。しかもからは先を行く房太郎の大きな背中しか見えない状況で、あとどれくらい道が続くのかも分からず、尚更不安感を煽った。
 すると房太郎がピタと立ち止まり、背後に顔を向けた。
「なんだよ、まさか疑ってるのか?」
「……少し」
「用心深いのは結構だ。だが、今の状況をよく考えてみろよ」
 頭上に疑問符を浮かべるに対して、房太郎は人差し指を立てて続ける。
「いいか?俺達は今互いに離れられない状況にある。こいつは例えばの話だが、もしも今、どちらかが小便をしたくなったらどうする?」
「!」
 が自身の腹部にハッと手を置くと、房太郎もそこへすうっと滑るような視線を向けた。
「まあ俺としてはいずれ見せ合うものだし、そいつが少し早まろうが悪くはねえと思っちゃいるが……」
「は、早く行こう。こっちの方向なんでしょう?」
「っと、痛っ……」
 房太郎を押しのけてその脇を過ぎようとしていたは、彼の漏らした小さな声に反応して動きを止めた──その時だ。
 房太郎はに素早く身体を寄せて、建物の硬い壁に彼女の背を押し付けた。そして驚き見上げるの動きを塞ぐように、自身も壁に片肘を突いて更に密着する。
 相変わらずの首元に房太郎の髪の毛は絡まったままで。だがこうなると、やはりこの状況が彼によって作られたものであるという事がにも理解出来ていた。対する房太郎は瞳に警戒の色を濃くするを気にするでも無く、むしろどこか愉しげに目を細めて彼女を見つめていた。
「急に離れようだなんてひでえなぁ。俺達は今一心同体みたいなもんだろう」
「理髪店は?」
「店を見掛けたのは本当さ」
 それより、と。房太郎はの耳元に顔を寄せふうっと囁く。
「今は先に、“小便”がしたくなっちまったって言ったらどうする……?」
「は、それは」

「いたな、オメェらぁ!!」
 大きな声が路地から聞こえて、房太郎とはそちらに視線を向けた。
 見れば先程に絡んでいた男が道の真ん中に立ち、彼らを指差しながら何やら喚いている。俺を馬鹿にしただのふざけるなだの、後はまたに対する口汚い罵倒が続いていたが、この状況では救いの神のように感じられて彼女はほっと胸をなで下ろした。
 二人だけの密やかな空間にあった色めいた空気は霧散し、今や男の罵倒に乗って、通りの賑やかな気配が路地まで届いていた。房太郎は白けたように「あー……」とポリポリと額を掻いてから。
「よし。やっぱり殺してくるか」
「!待った、先に理髪店に行かないと」
「ああ、これか」
 ザクッ、と。が反応する間もなく、房太郎自身が取り出した折畳式のナイフによってレクトゥンペに絡んだ毛先はあっさり切り落とされた。
「言っておくが、こいつを持ってる事は別に隠してたわけじゃないんだぜ。これくらいの備えはしてるさ」
「いや、それよりも髪の毛が」
 どういう事かと、雑に切られた毛先を指して問い掛けるに、彼は再びナイフをパチンと折り畳みながら応じる。
「そもそも俺、石狩川の蒸気船の時に杉元にはザックリいかれてるんだよな。今更だろ?」
 そうあっさりと種明かしをして、房太郎はから離れる。一人路地に残され呆気に取られていたは、間も無く聞こえてきた男の悲鳴にハッと我に返ったのだった



 + +



 少し早足で歩くの後ろを、房太郎が彼女の様子を窺うようについてくる。
「なぁー、怒ってんの?」
 は房太郎となるべく距離を取ろうとしているのだが、元々の歩幅の差もあり、大股で歩く彼に容易に追い付かれてしまうところがまた何とも悔しいところであった。
 仕方無く、彼女は顔を前に向けたまま応じる。
「ああいう事をされたら、警戒もするだろう」
「路地に連れ込んだ事か?謝るよ、俺も早くと仲を深めたくて気が急ってたんだ。でないと、シライシにすら先にかっ拐われちまいそうだったからな」
「どうしてそこでシライシ?」
 意外な名前に思わず歩を緩めたに追い付いた房太郎は、彼女の隣に並ぶと改めてその顔を見つめた。
「というか、が怒ってるのってそこだけか?」
「え?ああ、後は結局あの男を殴り付けた事も」
「そうじゃない。髪の毛の事を言われるのかと思ったからさ。今回の話って、元々はそこからだっただろ」
 房太郎の言葉を受けたは少し考え込む素振りをみせた。その間黙って彼女を見る房太郎は、じっと何か──“答え”を待つようだった。
 やがては小さく口を開く。
「髪の毛の事は分からないけど、家族の話をしている時は本当のように聞こえた」
 房太郎はの言葉に僅かに目を見張る。だが彼はその表情をすぐ奥にしまうと、に向けていつもの食えない笑みをニィと向けた。
「なかなか説得力がある話だっただろ」
「そ、それじゃあ髪を伸ばしてるのに理由は無いの?」
「俺は金塊を手に入れたら王様になる男だぜ。見た目にも多少のハッタリがあった方が、上に立つ者として箔が付くってもんだろう」
「そういう理由か……」
 脱力したの肩を房太郎は笑いながら叩いた。そしてふとその笑いを潜めて、彼女に告げる。
「なぁ。やっぱり俺は貴女と今よりも親しい仲になりたいんだけど、どうすればいいかな」
「突然距離を詰めたりしてこない事と、あと、やっぱり頭を殴るのはやりすぎだと思う」
「なるほどー。……頭じゃなくて、顔とか腹は?」
「同じでしょ!」
 後者の条件は譲る気の無いらしい房太郎に、は思わず大きな声を出した。