アシパとがクチャの中で身を寄せあって静かな寝息を立てていた頃。残る男達は、大事な話があると訪ねてきた牛山を中心に外で焚き火を囲んでいた。一同が神妙な面持ちで言葉を待っていると、やがて牛山がその重たげなゆっくりと口を開く。
とヤラせてくれ……」
 バチッ!と、赤く揺れる炎の中にある薪が、大きな音を立ててはぜた。
 杉元と白石は互いに視線を交わし合い、残る尾形はというと表情は変えず一切の身動きさえもしなかった。牛山はそんな彼らの反応を確認してから、自身の膝に置いた手に力を込める。
「よし、いいな」
「「駄目に決まってんだろうが!!?」」
 立ち上がろうとした牛山を仲良く声を合わせて制したのは杉元と白石だった。対する牛山はえっと目を丸くしていかにも意外と言わんばかりの反応を見せる。
「駄目なの?」
「むしろ何でいいと思ったんだよテメェ。ったく、てっきり土方から何か言付けでも預かってきたもんだと思ったら」
「……言っておくが、俺は本気だぜ」
 呆れたように言う杉元の言葉に、牛山がそうポツリと返した。その言葉に嘘は無いと思える程──確かに牛山の表情には今ただならぬ凄みのようなものが宿っていた。己の中にある今にも破裂せんばかりの欲を押さえつけるのに必死なのだろう。フゥ〜……フゥ〜……と地を這うような呼吸をし肩を揺らす様は、只でさえ大きな牛山の身体を何倍にも大きく見せていた。理由はくだらないというのに、彼の本物の迫力に杉元と白石は思わず顔を引きつらせる。
「あんないい女を前にしてひたすら耐えて、我慢、我慢我慢、我慢……してきたッ。最近じゃあの着重ねた衣装の下がどうなっているか夢にまで見て、まともに寝られてさえいねえ。もう限界だ」
「お、落ち着けよ牛山。俺達に相談してしたって事はまだ理性は残ってんだろ?」
 白石が宥めるように言うと、牛山は彼の方をチラと見てまた深く息を吐いた。
「……だが、それも正直どこまで保つか分からん。そろそろ何かで発散せんと、次にあの誘うような腰回りを見たら正直力づくにでもでいきかねん」
「誘うような腰回り……ぅ分かるッ!」
 腕組みしながらうんうんと頷く白石に、杉元は冷たい表情を向けていた。
 カッキン、と。装填音が静かに響いた。
 杉元が見ると、尾形はいつの間にか膝の上に置いた愛銃のボルトを手にしていた。
「もういいだろう。協力者に害を加えると堂々公言する危険人物を野放しにしておくわけにはいかん」
「くっ、牛山の行動が非常識過ぎるせいで尾形の言っている事がわりとまともに聞こえる……!」
「ふん、今の俺ならお前らを張り倒してでもいくぜ」
「へぇ?それだけ狙いやすい目印をつけといて、避けられるもんなら避けてみろよコブ額野郎」
「はいそこ、ちょーっと待ったぁ!!」
 主に尾形と牛山の間に流れる空気がまさに一触即発と言わんばかりになった所で、白石が大きく手を広げて声を張り上げた。すると間髪入れずに杉元がその頭を平手でベチンと強めに叩く。
「あふんッ」
「うるせえよ、二人が起きんだろ」
 白石は涙目で頭を擦る。
「そもそもお前ら全員、発想も行動も野蛮なんだよっ。無理にってのは絶対に良くない。だが牛山みたいなやつは少し位は発散させてやらねえと、それはそれで尚更良くねえ」
「女を差し出せと?」
 そう聞く尾形に向けて白石はチッチッチッと勿体振るように指を振る。その指先を見つつも、尾形の表情は変わらなかった。
「ま、仕方がねえからここは俺が一肌脱いでやるよ。この白石様の鮮やかなお手並をとくと御覧じろってね」
 この瞬間白石以外の熱が一気に冷めていった事で、白石は彼自身知らぬうちに、取り敢えずの仲裁には成功していたのだった。


 + +


 外はまだ陽が昇る前で少し薄暗い。もぞりと身体を起こしたは、隣で眠っているアシパに小さく微笑むと、彼女を起こさぬように支度を始めた。
 が白石から聞いた、クチャを構えた地点から少し離れた所にある水場。そこは川から分岐し流れてきた水の終着点の一つであるらしく、魚などの気配は無いものの濁りも無く綺麗な場所だった。
 アイヌに決まった入浴習慣は無いが、実はは肌には少し冷たい位の水で水浴びをする事を昔から好んでいたのだ。
「(それにしても白石はこういう場所を見つけるのが“いつも”上手だな)」
 彼女は出来るだけ早めに済ませてしまおうと、いそいそと着物を脱ぎ始めた。
 ──ちょうど、そこからは死角となる茂みの中。
 背中に影を背負った杉元が、足元にいる白石を睨み付けながら指の骨を鳴らしていた。
「“いつも”覗いてるって事じゃねえかよッ……!」
「ち、違うよぉ、誤解だよぉ!?つうか杉元!ちゃんにバレるから!」
「!チッ……」
 乱暴に地面に腰を降ろした杉元に白石は胸を撫で下ろした。そして自身の隣、茂みの中で大きな身体を縮こませている牛山へと声を掛ける。
「そこからの角度が一番の取っておきなんだからな、感謝しろよ」
「いや……、え?まさかこれで我慢しろって?」
「お触りは駄目だがこの程度ならまだ健全な方だろ。見た事が無いから夢にまで見るんだ。分かるぜ?今思えば俺も何も知らねえガキの頃こそ、猿みたいな時期があったしな」
「…………まあ、いいか」
 色々言いたい事はあるようだったが、実際の姿が目の前にある事もあり、牛山は白石からの案を飲み込んだようだった。
「ん?おーい、杉元。そっからじゃ見えねえぞ?」
「見ねえよ、俺は!」
 手招きする白石に、杉元は彼の背後から吠えるように返す。昨晩からの話の流れで同行したものの、杉元は本当にこれで良かったのかまだ迷っていた。
「(確かに牛山をあのままにしてたらが襲われかねねえが、だからといってこれは……)」
 そんな杉元がふと彼から右方向へと顔を向けると、そこには木の幹を背に静かに座り込んでいる尾形がいた。視線に気がついたのか、尾形も顔を上げて彼を見る。
「お前は何も文句言わねえのかよ」
「文句?」
「いやだって……尾形って、の事好きじゃん」
 杉元が若干言いづらそうに口ごもりつつ言った。
 すると尾形はしばらく真顔でそれを受けた後、ふんっと思いっきり馬鹿にしたように鼻を鳴らして口元に笑みを作った。当然杉元は額に青筋を走らせる。
「文句も何も、確かに最善とは言えんが妥協案ではあるだろう。昨晩はああ言ったが、あいつが本気で暴走したらどこまで抑えきれるか分からんからな」
「で、でもこれって普通に覗きだろ?は何も知らねえのにさ」
 それでも言い返してくる杉元に、尾形はやや面倒くさそうにして応じた。
「思ったより純な物言いをするな、杉元一等卒。己の見てくれを考えろ、気色悪い」
「うるせえな!!」
「……俺達の目の届かない場所で力の敵わない大男に襲われる可能性を考えたら、当然仕方無くという事にはなるだろうが、今肌を晒させておいた方がマシだと思うがね」
「けどそいつは本人が、……ん?」
 その時。白石達の様子に変化があった事に気が付き、杉元と尾形は揃ってそちらに顔を向けた。
「……話が違う……」
「あれ、言わなかったっけ?ちゃんは、と言うか、アイヌはみだりに肌を露出したりしないんだよ。だから水浴びの時でもああいう肌着みたいなのは必ず……って、もしもし?聞こえてる?」
 聞けば、どうも白石が焦った様子で牛山の事を宥めているようだった。
 その会話の内容を聞き無意識にの方へと顔を向けてしまった杉元。直後にハッと我に返って視線を逸らそうとしたが、一瞬視界の端に捉えたの姿に思わずその動きを止めた。
 白石の言う通り、は膝丈程の長襦袢のようなものを身に付けたまま水浴びをしていた。以前アシパ達からも聞いた事があるが確か、モウル、という名前だっただろうか。前身頃が縫い合わされ、上から被って身に付ける形式となっている。
 よかった。という事は、白石に裸を見られていたはいなかったんだ、と。
 胸に手を当てて安堵する杉元。尾形はそんな彼の横顔をじいっと見つつ、呆れたように言う。
「どうでもいいが、自分は見ないと言いつつ実際ものすごく見とるな貴様」
「ハッ!?ば、馬鹿言うな!これはそういうんじゃ」
 その時だ。茂みがガサッと大きく揺れる音がした。
「待て待て待て!おい、杉元も尾形ちゃんもこいつ止めるの手伝ってくれよ!?」
 牛山は今にも飛び出して行かんばかりで、その足元に白石が必死に追いすがっているという状態だった。興奮状態の牛山の頭からは白い湯気すら立ち昇っているかの様に見える。
「馬鹿にされたもんだぜこの俺が……まさか、この程度で満足するような男だと思われてるとはな……」
「だーかーら、見えない部分は想像で補うんだよ!俺達は想像の翼でどこまででも行けるはずだろぉ!?」
「生憎、俺はそんなんもんじゃあイケねえ」
 牛山はちょっと聞き惚れてしまいそうな位の渋い声でそう言い切ると、白石の制止などいとも簡単に振り払い茂みから出て行った。

 は段々と白み始めた東の空を眺めていた。
 生命の始まり、魂の輪廻。何度見ても神秘的で心洗われる雄大な自然の姿を前に、静かに祈りを捧げる。
 濡れた前髪から落ちた雫が、水面に小さな波紋を広げた。
「…………よし、そろそろ」
 と、言い掛けて振り返ったはそこで固まった。
 ぶくぶくと泡立つ水面。思わずは自分の尻を確認するも、そもそも泡立っているのは身体の正面である。警戒しつつ、じゃぶと水音を立てて後ずさる。
「オッケルイペ……?」
「ほれふぁぼうひうひみふぁ」
「ああ、オッケルイペの意味は猛烈に屁をする人という意味で、屁をするおばけの」
 泡から、と言うより、水面から聞こえた声と普通に会話をしてしまったは、事の異常性に気が付いて言葉を止めた。
 ザバーっと音を立てて大きな水柱が上がる。やがてそこから姿を現した牛山は頭に葉っぱなど乗せたまま、彼を見上げるに煌めくような笑みを向けた。
「その可愛らしい唇で……もっと色んな話、聞かせてくれるかい?」


 + +


 後にこの時の事を回想した曰く、“夢かと思った”と。
 それだけ牛山の登場は彼女にとって唐突であり、状況からいっても即座には受け入れ難いものだった。加えて更に彼女を混乱させたのは、そこに新たに響いたバシャァン!という大きな水音と、離れた茂みから飛んできた聞き覚えある声である。
ちゃーん!今杉元が行くぞー!」
「クソッ、結局こうなるのかよ……!」
 白石の言葉通り、杉元がじゃぶじゃぶと水をかき分けての方に近付いて来ている所だった。しかし杉元はと視線を合わすと驚いたようにその目を見張り、舌打ちと共に顔を逸らす。
「悪ィ、なるべくそっちは見ないようにするから」
「あ……」
 杉元にそう言われて、はようやく自身の姿に気が付いた。
 濡れてぴったりと肌に張り付いたモウルは、が普段は極力秘めている女性らしい身体の曲線を露わにし、場所によっては下の肌の色を薄っすらと透けさせてさえいた。
 はみるみるうちに顔の熱を上げていくと、両手で自身の身体を隠すように抱えた。そんなつもりは無いというのに、羞恥により自然と瞳が潤む。そして彼女は今一番近くからこの姿を見られているであろう牛山に対し、今にも消え入りそうなか細い声で告げた。
「み……見ないで」
 誰か、息を飲むような気配がして。
 の頭上から掛かっていた牛山の影が、ぐらりと揺れた。
「その恥じらい……忘れちゃいけない、ぜ……」
 彼はに親指を立てながらそう言い残すと、その姿勢のままゆっくりと仰向けに卒倒した。盛大な水飛沫が上がり、は慌ててそこを覗き込む。
「牛山!」
 するとようやく傍までやって来た杉元が、水中の牛山を見ながら呆れ顔で頭を掻いた。
「笑ってやがる。確かに寝られてないとは言ってた気がするが……、まさか我慢させ過ぎたせいでどっか変な糸でも切れたか?」
 それから杉元はに向かって牛山をぞんざいに指し示した。
「なぁ、もうこいつこのまま沈めとこうぜ」
「何を言ってるんだ!起こさないと」
「チッ、しゃあねーか……。じゃあ俺が担いでくから、は先に上がってな。まだ朝方だし、さすがにそのままじゃ冷えてくるだろ」
「……分かった、そうする」
 その会話の間もずっと、杉元はの身体を見ないように気を遣っているようだった。何だか申し訳ない気になったは、彼の言うとおりになるべく速やかにその場から離れる事にした。
「危ない所だったなちゃん。ちなみに俺は何も見ちゃいないぜ、いや本当に」
 川岸に上がったを出迎えたのは、いかにも形だけといった感じで目元を隙だらけに両手で覆った白石と、そんな彼とは対照的に、特に何も取り繕うともせずただそこに立つ尾形だった。
 は身体からぽたぽたと雫を滴らせながら意外そうに目を開く。
「そっちは皆で水浴びに来たのか。すまない、白石が見つけてくれた場所なのに先に使わせてもらった」
「ええっと、そんなに都合よく解釈してもらっちゃうとそれはそれで良心が……」
 バツが悪そうにごにょごにょと口籠る白石に首を傾げてから、はふと気が付いたように尾形の方に顔を向け、その表情を明るいものにした。
「尾形も皆と仲良くしてるんだな」
 尾形はの言葉に眉を顰める。
 彼は改めての姿を確認すると、足元にあったの服を拾い上げ彼女の方へと投げた。はわっと声を出しつつそれを反射的に受け止める。
「無頓着なのか恥じらいが強いのかどちらかにしろ。それによってはこちらのやり方も変わってくる」
「は、恥じらい?恥じらいなら当然あるぞ、あるに決まっている」
「……そうか。ではそのように覚えてこう」
 どうも肝心な言葉が足りていない尾形を、は追求するように半眼で見つめた。やはり取り合う事もなく顔を外方に向けていた尾形だが、やがて根負けしたのか「分かった分かった」と肩を竦めつつその指先を、すっ……と静かに彼女の背後へと向けた。
「そこの奴が思いっきり覗いていたぞ」
「え」
「お前さぁ〜……ほんとさぁ〜……!」
 ゼェハァと息を荒くしつつどうにか湖畔まで戻ってきた杉元の背で、牛山は満足げな寝顔を見せていた。