川で獲った魚と、たまたま近くにあった農家から安く分けてもらう事が出来た野菜。一行は少し遅めの朝飯と昼飯を兼ねた鍋(オハウ)の仕上がりを待ちながら、燃え立つ焚き火の周りを囲んで各々暖を取っていた。散策から戻ったばかりのも、濡れた手袋から出した手を擦り合わせてそこにかざす。
 すると、隣から大きな影が落ちた。
 が見ると、いつの間にかそこに腰を降ろしていた房太郎が、自身の上着を捲りながら彼女に声を掛けた。
「俺は一足先に戻って来てたから結構暖まってるぜ。良かったら入るかい」
「そんなに寒くないから大丈夫」
「鼻先が赤くなってるのに〜?」
 くすくす笑う房太郎からは自身の鼻を両手で隠す。そんな彼らのやり取りを少し離れた場所から見ていた杉元が、呆れたような声を出した。
「なんだありゃ……。何か急に馴れ馴れしくなってるぞ」
「完全に口説きに掛かってるな。用心しろよ杉元」
 実は白石は事の経緯を知ってるのだが、それならなぜ間に入って止めなかったのかなど何やかんやで怒られそうなのが嫌だったので、きりっと表情を作って杉元に同調した。
「頭巾ちゃんは?誰か一緒じゃなかったのか?」
 そこで、声を上げたのはアシパだ。 
 彼女は鍋の上で切った野菜を汁の中にぽちゃぽちゃと落としながら周囲を見渡す。確かにその中に、彼女が今「頭巾ちゃん」と呼んだヴァシリの姿は無かった。杉元が燃え上がる炎の先を追うように顔を上げる。
「煙が上がってるから気が付くんじゃないかな。それか、俺が探して来ようか」
「あ。戻ってきた」
 白石の指摘通り、林の方からヴァシリが銃を背負って歩いてきた。近くまで来ると皆の視線が自分に集まっている事に気が付き、きょとんと不思議そうな表情を浮かべる。
 すると火にくべる細い小枝を手慰みのように折っていた房太郎が、そこからまたパキッと音を鳴らし、口を開いた。
「俺はその兵士さんの声を聞いた事がないんだが……、こちらの言葉は全く通じないのか?」
「口の怪我がひどくて喋れねえんだと。でも確かに、頭巾ちゃんって黙っててもついてくるから気にしてなかったけど、多少の意思疎通は出来ないと不便だよな」
「はは、お前ら適当だな〜。金塊を探す仲間ってわけでも無いんだろ?その内背後から撃たれるかもよ」
「テメェが言うんじゃねえよ」
 白石の言葉に笑う房太郎に、杉元が吐き捨てる。
 彼らの会話を聞いていたがバツが悪そうに続けた。
「私は話せない事もないんだけど、今は彼が口を利けない状態だから一方通行になってしまって」
「でも何も伝えないよりはいいはずだ。、試しに食事の時は戻るように頭巾ちゃんに伝えてみてくれないか」
 アシパの言葉に頷いて、はヴァシリに声を掛ける。彼は少し驚いたように目を開いた後、自身の荷物を荷物をガサゴソ漁って取り出した紙の束に何やら書き始めた。それを見た杉元がポンと拳を叩く。
「そうか!喋れなくても筆談って手があるじゃねーか」
「いや、でもちゃんって確か文字は」
 白石が言い淀むように危惧した通り、はまるで遠くにあるものを見るかのような難しい表情を浮かべると。
「森……の、じゃなくて。森で、狩りました。それを、しかし……?」
 自信なさげにたどたどしく、それでもどうにかといった様子で文法の怪しい言葉を絞り出す。
 いつかの再現に顔色を曇らせる杉元らに対し、唯一房太郎だけは感心したように彼女に拍手を送っていた。


 + +


「ああ!ようやく分かった、“森に狩りに行ってたけど、煙が上がってるのを見て戻ってきた”って」
 そういう事でしょうと、がヴァシリに改めてロシア語で確認すると彼は頷く。
 杉元が言いづらそうに口を開いた。
には悪いけど、遠回りして出発地点に戻ってきた感じがあるな……」
「おいおいおい。何言ってんだ、十分スゲーだろ」
 しかし、そこで反論の声を上げたのは房太郎だ。
 一同の視線が集まると、彼は両腕を広げて語り始める。
「俺も部下達にロシア語を習得させようとしたが、こいつが相当ややこしくて結局は無駄骨に終わった事がある。まぁその時は、日露戦争に通訳官で同行したって奴から買わされた辞書の中身が全くの出鱈目だったってのもあるが」
「なんだよ、騙されてやんの」
 白石がぷっと小馬鹿にしたように吹き出すと、房太郎も当時を振り返るようにおおらかに笑った。
「はは、そうそう!おそらく通訳官っていうのも嘘だったんだろ。腹立ったから金玉にでかい重石をくくりつけて空知川に捨ててやった」
「ヒッ……」
 思わず想像してしまった白石が局部を押さえて青ざめるも、房太郎は構わず笑顔のまま隣のへと向き直った。
「だからはすごいよ。きっと元々頭が良い人なんだろうな」
 真正面からの称賛には瞳を僅かに開いて、「そんな事は無いけど」と顔をふいっと逸らす。
 それは一見脈無しのようで、決して短くは無い付き合いの中での性格を知る杉元と白石からすると悪い反応では無かった。下手したら良い雰囲気に転がりそうな所をどう阻止してやろうと彼らが考えていると、それまでのやり取りを見ていたアシパが明るい声を上げる。
「そうだ。それならは、頭巾ちゃんに読み書きを教えてもらえばいいんじゃないか?」
 その提案に思わずえっと驚きの声を上げたがヴァシリを見ると、当然ながら彼女らの話が伝わっていない彼は不思議そうに見返した。
「この先もしばらく一緒だろうし、それでが頭巾ちゃんの言いたい事が分かるようになれば旅もし易いだろう」
「確かにいい考えだな。、頭巾ちゃんにちょっと聞いてみたら?」
 もしもアシパの提案が実現するなら、いつかこの苦手意識を克服したいと考えていたにとっても、願ってもない事だった。杉元からの後押しもあって、は改めてヴァシリに顔を向ける。
 狙撃手には、こんな時にも相手を注意深く観察する習性でもあるのだろうか。じっと逸らす事なく見つめ返してくる、青く切れ長な瞳にやや緊張しながら、彼女は切り出した。
『私は貴方の国の言葉を話せるし聞き取れるけど、文字は読む事が出来ない。貴方さえ良かったら、教えてもらえないだろうか』
 ヴァシリからすぐの返答は無かった。
 しかしやがて鉛筆を手に取った彼は、また何かを紙に描き始めた。そして皆の注目が注がれる中、彼はに向かってその紙を裏返す。
「これは焚き火……、Костёрカスチョール?」
 ヴァシリの描いた絵は、必要最低限の線でありながら目の前で燃える焚き火の様子を忠実に表していた。彼はの言葉にうんうんと頷くと、今度はそこから矢印を繋ぎ、ロシア語の文字を記していく。
 は立ち上がってヴァシリの方へと歩み寄ると、その隣に寄り添って彼の手元を覗き込んだ。
「この文字は多分、上に点が無い時は読み方が変わるよね?……あ、そうそう。こっちの点が無いやつは似てるけど読み方が違う。やっぱりそうなんだ」
 その様子は、直接言葉こそ交わしていないものの、上手く通じ合っているようにみえた。
『これは私?』
 続いての似顔絵らしきものを描いたヴァシリは、指先で円を書くように矢印の先の空欄を示す。
 おそらく名を尋ねているのだろうと察したは、彼から筆を受け取ってカタカナとローマ字で自身の名前を記した。
「ねえ、これで合ってるかな」
 はヴァシリに答える前に、杉元らの方へ自信なさげな表情を向けながら問い掛けた。それを見た杉元が彼女に分かり易いように大きく頷く。
「大丈夫、合ってるよ。そう言えば、は文字が分かるんだな。前にアシパさんに聞いた時は、アイヌは文字を持たないって聞いてたから」
「私も漢字は読めない。でも以前、知人から教わる機会があって……」
 そこでピンときたのは白石だった。
 敢えて多くを語らぬ口振り、物憂げに伏せた瞳。文字を教えたという事はおそらくアイヌではないだろうし、が度々働いていた先のただの知り合いにしては、語る態度に色がある。よって、の言う“知人”とは昔の男の事では無いかと直感したのだ。
 しかしここで深く突っ込んで嫌な顔をされてもなと、白石は何事も無かったように流そうとしたのだが。
「その知り合いって、昔の恋人?」
 そこを易々と行くのが房太郎である。
 そしてが言葉に詰まったのは、最早質問に対する答えでもあった。他の面々から咎めるような視線を向けられるも、彼は片手を挙げて涼しい顔でいなす。
「何も深い意味があって聞いたわけじゃない。ただそういう風にも取れたから、実際はどうなのかと思って聞いただけだ」
「にしてもお前さぁ……」
 白石が房太郎に呆れたように言う間、も何かは返さねばと口を開こうとしていた。するとそんな彼女の肩を、隣からヴァシリがトントンと指先で叩く。
「あ……、そうだ。名前」
 そこではヴァシリとの話が途中になってしまっていた事を思い出して、改めて自身の書いた文字をなぞった。
『私の名前は。文字ではこう書く。……以前、大切な人からそう教わった』
 最後は感傷的に言いながら、は誤魔化すように続けた。
『貴方の名前も教えてほしいけど、私はまだこの字も、自分の名前以外は自信が無いから間違って覚えてしまうかもしれない。だから怪我が直った時に、また聞いてもいいかな』
 ヴァシリはの問いに少し考えるような間を置いた後──、一度ゆっくりと頷いた。
 がずっとロシア語で話している為、二人が何を話しているかは他の面々には分からなかった。しかし当初よりは親しげにやり取りする彼らの様子を眺めながら、房太郎がヴァシリを指差して口を開く。
「俺達の言葉は分からないんだよな?」
「しつけーな、さっきそう言っただろ」
「やっぱりそうだよなぁ。……という事はそこは万国共通で、綺麗な女性が困った顔してたからってところかね」
「あ?」
 先程房太郎からの質問に戸惑うの肩をヴァシリが突いた時。房太郎は、彼が一瞬だけ自分の方に視線を寄越していたような気がしたのだ。
 以前自身が白石に語った「信用出来ないのはお互い様だ」という言葉を思い出して面白がるように目を細める房太郎に、杉元は怪訝そうな眼差しを向けていた。


 + +


 食事後の小休憩中。は川の近くに腰掛けながら、ヴァシリから分けてもらった紙に教わったばかりの文字を書いていた。
 するとアシパがやってきてその手元を覗き込む。
「何て書いたんだ?」
「これは、私はご飯を食べました、だよ。でも間違っているかもしれないから、後で見てもらう事になってる」
 嬉しそうに応えると対象的にアシパの表情はやや暗い。気が付いたが「アシパ?」と呼び掛けると、アシパは彼女の隣に腰を降ろして口を重たげに開いた。
「私は昔が文字を学び始めた時、は私達から離れていってしまうんだと思っていた」
「え……」
「勿論、今はそう思っていないから話せる事だ」
 驚くに断りを入れて、アシパは続ける。
「でも、にとって文字は、大切な人から教わった大切なものだった。そんな事も知らず、あの時の私は勝手にすごく寂しくなって……ひょっとしたら態度にも出してしまっていたかもしれないし、には一度しっかり謝っておきたかったんだ」
 アシパはそう言うが、は当時の幼い彼女がそんな事を考えていたとは全く気が付いていなかった。
 何より先程ヴァシリに文字を教わる事を提案してくれたのは、他でもないアシパである。それにも関わらずこうしてわざわざ話をしに来てくれた彼女の背に、はそっと手を添えた。
「謝らなくてはいけないとしたら私だよ。アシパにもフチにも、彼の事はもっときちんと話すべきだったよね」
 するとアシパは何かを堪えるような表情で頬を紅潮させてから、からふいっと顔を背けて、やや拗ねるように口を尖らせた。
「本当にそうだ。あの時のは私達に何も話してくれなかったから、皆心配していたんだぞ」
「それはどう話していいか分からなかったのもあって……、だから今更になるかもしれないけど、聞かれたら何でも話すよ」
「いいのか?」
 彼との思い出の中に聞かれて困る事など無かった。が勿論と頷くと、アシパは大きな瞳を更に開いて輝かせる。
は、その人のチンポは見たんだろう?」
 だから。は今、妹のように思っている少女の口から出た予想外過ぎる問いと、その直前までの流れが繋がらずに一瞬固まってしまった。
「チ、ン……」
「チンポ先生が、男を選ぶ時はチンポだと言っていた。はどうやって相手の事を見極めたんだ」
「いや、ちょっと待って」
 慌てたは、しーっと人差し指を立てながら周囲を見渡した。
 すると、頭上からぬっと影が落ちて──いつの間にそんな近くまで来ていたのか、ヴァシリが彼女らを見下ろしていた。は驚きつつ、彼との約束を思い出す。
「あ……、そうだ。文字を見てもらうって」
「その前に私の質問に答えてもらってないぞ。はチンポを見たのか見ていないのか、そのチンポが……」
「な、何度も言わなくていいから!」
 そうして目の前できゃあきゃあと繰り広げられる彼女らのやり取りに、ヴァシリはただ首を傾げるのだった。